わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

沸点を低く設定しなければ崩壊が起きる

癇に障る物言い/崩壊

よく高校の同期に私の怒りの沸点は低いと言われていた。それもその通りで、私の本来いる環境ではない人達と時間を共にしていたから、慣れるよりも前にその言動に機敏に反応できるようになってしまったのだ。あの言動を受けても全く慣れないし、寧ろ怒りが早く沸き立ってくるようになった。そいつらの起こす言動は、一般的に見ても何を言っているのか判らなくて気色悪く感じる人が私以外にも居るのではないかと感じてしまう程だ。それは大体が煮え切らない言い方や、頼んでもいないのに勝手な自己完結文を心の中で終わらせないで一方的に相手に押し付ける形で言ってくるのである。伝えるのではなく必ずと言っていいほど一方的に言ってくる。何も知らずに話を聞く体制を取ろうものなら、その期待を裏切られることは間違いないだろう。なのでこれと言って具体例を挙げられない。

 物質的にも精神的にも既に崩壊が世の中に起きている。今の政治家が、何を質問されても同じ言葉を繰り返したり代り映えの無い政治が蔓延るのは、世の中が堂々巡りに合ている証拠でもある。外交などでこれまでは結びつきの薄い国との会談があったり、難題に対処し着実に前進していると言われる方もいるかもしれないが、日々の進捗の話をしているのではない。時系列を遡ってみれば、2011年を境に社会が浮足立っている様にも感じた。海外に住んでいなかったので詳しいことは知らないけれど、特に日本は酷く浮足立っている状態が続いている。こうなった時には善処よく立ち回らなければならない。浮足立つ時は物事の事実確認が重要ではあるが、感覚で判断するようになる事がもっと大事になってくると常々感じる。違和感を感じて「あの時のあれは何なんだろう…」と思った時が浮足立った時なのだ。この状態になると人々は普段よりも舞い上がり何でもない日々までもが楽しいと感じるようになり、多分気持ちの面でも感情が高ぶることがあるだろう。こうゆう状態が長引けば常識人とお祭り頭の間に軋轢が生じ、小競り合いが頻発してしまう。常識を持った人が、軋轢が生じる前に当たり前に常識の隙間を搔い潜ってでも指摘していれば、大きな崩壊は避けられただろう。お祭り頭の人達は餓鬼界に生きている人達だから、浮足立つ時は出しゃばる恰好チャンスと捉えているのだ。それを「楽しそうにしているね」や「何か面白いことやっている」と自分とは関係ないことと言ってほったらかしにするから、時すでに遅しで幾ら常識を論(あげつら)っても状況の改善にはならないのである。

常識は枠の中

常識が守られ秩序が保たれている状態は飽和で言い表せる。

飽和…最大限度まで満たされている状態。ある状態を増加させる要因を増してもその状態量が一定限度に止まり、それ以上増えない状態*1

飽和の意味を理解できてれば色々と面倒な事は起こらないと思う。飽和は社会基盤がモノと人々の解決されない思いでごった返している状態を表していると考えてみるのはどうだろうか。それは既に二〇〇〇年に入ったころにはそのような状態であったし、それから数年して感じたことは、これからの社会は物質・精神共に昔のようになっていかなければならないと薄々感じていた。そしてこれ以上の突飛な進展は、環境面から見ても自然は飽和状態を望んでいないと肌感覚で感じた。それでもまだこの状態が保たれていれば、人々の物事に対する共通の思いが強かったし、当時過ごしていても自然の優しさに包まれていてその中で過ごす人々も今とは比べ物にならない豊かさがあったように感じる。これまでは自然の中に人々の暮らしが存在していたけれど、今は本来あったその自然するら敬う人がいなくなってしまい、人在りきの土地を醸成してしまったがために氏神様の存在すら忘れてしまったかのようで、これまで人々が積み重ねてきた行いがあったからこその豊かさが消え去っていこうとしている。

人々に関して言うならば、それは飽食になってしまったことで社会に影響を与えている。

飽食…①腹いっぱいに食べること②食物に不足の無いこと。生活に何の不足不自由のないこと*2

意味をそのまま捉えて食べ過ぎている人がいれば、本来その性に持ち合わせない実力がどうゆうわけか備わっており気持ちが常に舞い上がっている人もいる。飽食の人が増えたせいで、例えば本来発表されるはずだった研究が頓挫させられ別の人がその研究を受け持つことで、伝えたかったことが伝わらないものになってしまったとか、人が美を追い求めるせいで本来の美人さんが世の中から見ることがなくなってしまって、容姿だけでなく性格の面からも憧れる人が現れなくなってしまった。そしてそうゆう人達は自分だけが良い思いをするに飽き足らず、憧れていた人を目の敵にし出し嫌がらせを興じ始めたのだ。人は何かのはずみでタガが外れると何かのタイミングで突き落とされない限り、何時までも何かにつけて人に嫌がらせをしてしまう性になってしまうのだ。そうなっている人達はいつも高みに上っていないと気が済まなくて、そうなっていないと自分が保てないのだ。そういった人達からは*3「自分が良いと思ってこうなろうとした結果が今なのだ」や「私はこうなるべき人間なんだ」とか、仕舞には「僻(ひが)むならあなたも努力しなさいよ」と、こちらが迷惑を被っているのにあたかも自分が迷惑を被っていると認識の違いまでわざわざ伝えてくる始末だ。

初めにも書いたようなことが例を挙げると上記に当て嵌まり、論点をすり替えられて全く腑に落ちない内容を言われるのが常である。こうなると人はキョトンとして一瞬でも怒りはどこかに消えてしまう。このことが積み重なることで、常識と照らし合わせても「浮足立った」と表現される人達がゴロゴロと増えていく原因になる。そしてこういった積み重ねを解消しない結果飽和状態が長く続き、常に欲を満たし続ける飽食を辞めない人たちによって崩壊を招く結果となるのだ。

沸点を低く設定しなければ崩壊が起きる

論点をすり替える人達は思いの外精神年齢が低く、まるで「私を言い負かしてみなよー」とも捉えらえる雰囲気をいつも醸し出している。こうゆう人達を相手にするのは子供を相手にするよりも当然厄介だし、その人達は注目されることを日頃から望んでおりまるで自分の性格を把握させたい衝動があるかのようで、学生時代に係った人を見てもそう捉えられるような言動が多く見れた。だから精神年齢が高い私達が大らかに沸点を高く保って転がせておくのでは、またニ〇一〇年台に起こったような社会を惑わす「崩壊」を招いてしまいかねない。

大人のおこちゃまにも何かしらの社会が存在しているのも事実だが、常識は善くも悪くも枠の中で起こっておりその枠を自分の都合のいいように渡り、結局は権力者に後始末を頼むような人達でもある。何かと迷惑を掛けられる側に居るのであれば、その人達を良いように泳がすのではなく臨戦態勢で居なければ「おこちゃま」なので様々な面で厄介が付きまとう結果となってしまう。

*1:広辞苑第五版

*2:広辞苑第五版

*3:これまでの経験上言いそうなことを記しています。

他人事で造られ生活を強いられる

仏教

 自分自身を仏教徒であると昔は認識していなかったけれど、十年位前には自ら写経をしにお寺に赴いたり便利になった世の中を利用して動画で仏教について学んだり自宅で気軽にお経を聞ける世の中になった。本当ならお寺に行って、その雰囲気を感じながら写経したりお説法を聞けば気持ちの面からも自分の居場所を確立させられる。近年信心深くあるようにと説かれると、人々の性がそれを撥ね退けてきたからそれを忌み嫌うようになった。しかし気持ちを少し宗教に傾けるだけで、それを心の拠り所にすれば信念が徐々に確立され自分自身の考えが鮮明になるし、対人関係で認識の違いがあれば明確に違いを示せるようにもなる。もし対処出来ない事があったとしても相違を感じればそれに対処できるようにもなり、物事の善し悪しを判断し意見が違っても自分の意見を貫き通せる意志がつくものだ。

私は身体を操られ身体を大きく変えられていることはカミングアウトしている。誰しもが❝妖精さん❞からいつまやかしを受けてもおかしくはないのだ。残念なことに私の周りには、理由なくせっせと私にちょっかいを出してくる人が大勢いる。こちらとしては受け身にさせられている側なので、なぜそのような事をさせられなければならないのかといくら考えても、能動を欲する人々の考えが浅はかすぎてその行動を全く理解できない。能動的に動く人は相手が理解できないことを良いことに嫌がらせをしてくるし、世の中はそれを容認しておりその何もかもが手に負えない状態に陥ってしまった。そうゆう人達は本来の遊び方を知らない人達で、際限を知らないから、何もかもが回復できないところまで進展しないと何をやっても許されると信じているのだ。しかし、この能動さん達も実は他人事で操られていことを知らずに高みに上れていると勘違いをしている。

そもそも「相手が理解できないこと」を良いことに行動することができるのはがきんちょである。テレビやネットでも取り上げられたことがあったが子供は考えるよりもまず動くと言われているし、相手があなたの行動を理解できないのはそもそも相手とあなたの存在するステージが違いすぎているからだ。ここで、最近知ったことがどうもこの事象によくあてはまることが判明した。それが学問の一つともいえる仏教から得た言葉だ。

一人の自分勝手が他人事の始まり

仏教において人間は自己中な存在とされている。それは有名な和尚様が若いころに感じたことでもあり、仏教徒だからとゆうわけではない。皆もよく知っている言葉にガリガリ「ガキ」がある。これを仏教の表現にすると「我利我利亡者」「餓鬼界」になる。

我利我利亡者とは自分さえ手に入れることが出来れば、他人はどうなってもいいとゆう考えであり、その心である。自己中で自分勝手な事である。

また餓鬼界は欲の心の業相*1の事を言い、欲しい欲しいと苦しむことを餓鬼道と言う

餓鬼界とはずっと飢え乾ききっている処で、飲食をしたくても目の前に現れた食事を口に運べず消えてなくなる処である。欲しい欲しいと苦しみ続けるその様が私たちの本当の姿である。

 子供のことを「ガキ」と表現するのも、自分の事しか考えられないか自制心がないからそのように呼ばれるのである。子供とは、まだ因果に基づく業の姿を体得していない状態なのである。また「ガリガリに痩せる」「ガリ勉」のように「ガリ」が用いられている言葉には、自分さえよければいいとゆう考えが先行している状態であるとも言われている。 またこういった例もある。

相手が自分勝手で、何でも自分さえ我慢すればいい。私は相手を考えられる(利他)けど相手は自己中で考えられない人間。だから自分さえ我慢すればいい。

こういった考えは我慢の美しさを謳っている様に聞こえるけれど、結局は自分を自分で追い詰めることになり病気に発展しかねない。しかもこの認識は相手にレッテルを貼って、上から目線でしか人を見られないことを教えてくれている例でもある。これも自分さえよければいいとゆう考えなので結局はうまくいかないのである。 結局人は自分さえよければいいと思う人間であり、そしてこれが我々の実態でなのである。

他人には相手を考えろと利他を要求するするが、自分だって我利我利亡者なのに相手の事を考えていると自惚れていて、それでも他人こそいつも自分勝手だと決めつけている。

 人を操ることはギャンブルをすることと一緒

他人事を私に強要する奴等はギャンブルをしているのとまったく同じことなのである。私を人間と捉えずに生物と捉えているから何度も再生させ、どれだけいたぶれば死に追いやれるかを常々考えて止まない人達だ。先にも述べた通り、理由が余りにも浅はか過ぎて全く理解できないし、本当にこんなことをやってはならないのだ。ここに一つの例があるので見ていきたい。

ある男性は先日もらったボーナスを全額使うほどのパチンコ依存症である。結婚はしておらず、これまでに一軒家が建つ位の金額をパチンコに費やした。お寺に通うようになって相談したことで四十代になってようやく辞められた。

 ギャンブルは高揚感とビギナーズラックによって期待値を上げられる。だからかそれにはまり続けいつまでもそこから抜け出せないのである。それについてこうも捉えられる。(以下は先述と同じで仏教視点からの引用である。)

一、病気だと知る

ニ、踊らされていると知る

三、ごまかしていると知る

四、人生の目的を知る

一、病気だと知る

ギャンブルは病気である。それは決意位では治らないのだ。入院や厚生施設に入って投薬や管理をしてもらい、ありとあらゆる方法を試さないと駄目である。風邪を引いて「もう咳をしません」と言っても、堪えても出てくるものだ。病気であると知って判断しなければ又同じことの繰り返しである。違う例で夫がキャッシング限度額までパチンコに費やし、借金を負ってしまった。妻に頭を下げて謝って、その分を工面してくれたけれど結局また同じことをしてしまったそうだ。縁(パチンコ)を断ち切れず自らの意思で因(選ぶ)をし、繰り返し果(借金)を作ってしまうのだ。「ギャンブルさえしなければいい人なのに」といいところを探して褒めるのではなく、本人も周りもそれが病気であることを知らなければ何も打つ手はないのである。

ニ、踊らされていると知る

パチンコ屋は人集客するために、電飾を駆使し高揚感に包まれるように演出している。そして職業柄踊らされる人を知っているのだ。三月四月は新規顧客を取り込むため、当たりやすく機械を設定するそうだ。ギャンブルをすることは財欲に踊らされているのと同じとも言える。仏教では五つの欲を「五滴のはちみつ」と言い表わしている。はちみつは、どんな危機的状況に置かれていてもあまりにも甘くおいしいので虜になって、どうしたら舐められるのかに没頭してしまっている例えがある。「五滴のはちみつ」は人の五欲に当てはめることが出来、食欲財欲色欲名誉欲睡眠欲がある。この欲に踊らされるから人は楽しすぎて自分の置かれている状況を忘れ、その状況がどんなものかが理解出来ていないのである。踊らされている例として、東南アジアのオラウータンの生け捕りがある。始めは水瓶に水と数滴のアルコールを入れて、様子を見つつ徐々に水瓶の中身をアルコールだけにして酔わせてゴロゴロし酔って寝ている隙に捕るそうだ。その状態は欲に酔わされいいようにされて、オラウータンと同じで笑えない状況と何ら変わらないのである。

三、ごまかしていると知る

ギャンブルにおいて願いは何時か叶うは危なっかしく、唯の無謀であり現実から目を背けてはいけない。自分をごまかす事は現実を認めずに楽な方に逃げていることと同じである。原因を無くしていった先に結果が変わる、これは仏教の教えである。ギャンブルで借金を作ってしまった場合、その原因はギャンブルである。ギャンブルの負けはギャンブルで返すと、一攫千金を狙うことと同じで因果の道理を知らないことと同じである。先ずは諦観*2しなければならない。地道に倹約を長期にわたって続けることが諦観している姿なのである。謝罪と諦観を避けることは自分自身が作った結果の苦しみをごまかしていることであり、諦観の種まきをすることで苦しみから抜け出せるのである。

四、人生の目的を知る

自分が本当に果たさなければならない目的は何かを知らなければならない。ギャンブルに溺れる人は、目的を知らないから時間やお金を無駄遣いしている状況なのである。人生は儚く短いけれど、ギャンブル以外にもっと大切な事に使える時間があるのではないだろうか。例えとしてギャンブルを取り上げているが、それだけではない。各人が必要ないことばかりに時間を費やしていないだろうか。

*3

世人 薄俗にして ともに不急のことを争う

世の中の人は薄っぺらくて俗っぽい。急がなくていいことばかりにバタバタと追われている。

いったい何のために生きているのかを見直さなければ、人生の目的を知ることはできない。

エロ王国日本

常々私はいたぶっている人たちを、なんて暇人なのだろうと思っている。ギャンブルと同じで高揚感を感じているならば病気だし、操っている人たち自身が他人から踊らされていると何故全く感じないのだろうか。ごまかしの視点を変えれば自分に跳ね返ってくるし、本当に今世で果たすあなたの役割はいったい何で、あなたがこの世に生を受けた目的は寸分の狂いなく果たされているのだろうか。他人を操っている人は、第三者の意向を汲んで特定の人の技量や能力や美貌を奪って第三者が喜ぶことを生きがいにしているのである。それはまるで、お金が足りなくなって簡単に借りられる男に工面をお願いしているこ様子と何ら変わらず、場所を設けていないチープすぎるキャバクラでしかない。流石エロ王国日本と言われてもおかしくないことである。その第三者も他人事で生かされたていると知ったらどんな事を思うのだろうか。人に対して見える力でも見えない力でも、人が健全に生きられない状況を作り出すのはいけないことで、その当たり前のことが出来ないからいつまでも自分を誇れず他人の魅力ばかり追い求めて継ぎ接ぎ人生を歩まなければならないのである。

*1:ごうそう:因果に基づく業の姿 

*2:たいかん:明らかに心理を観察

*3:釈迦様の言葉

バロメーターの残量

このことについては、今疲弊させられているから考えることができたのだろう。私の持論としては、人には決まった項目のバロメーターが備わっていると感じている。一番わかりやすい項目の基本として喜怒哀楽が挙げられるだろう。嬉しいことがあれば喜びのバロメーターが満タンになるし、悲しいことや怒りを覚えれば哀しみや怒りのバロメーターが満タンになって喜びのバロメーターは見る見る内に空っぽになってしまう。今の私の状況はこの状態に近い。 今日が誕生日 でも述べているが、私はどこかの❝妖精さん❞によって身体を変えられ行動を制限させられている。それは身体を動かすことだけではなく内蔵の分泌までもが制限にあっていて、生理なんてまともに来ない。今は仕事もできなければ、身体はボロボロにされているにも関わらず何かの力によって身体が動く状態にさせられており、そして本当の感情は悲しくて悔しくて怒りに満ち溢れているのに平静を保たされている状態なのだ。こんな窮地に居るのにどこぞのやくざは私に死の目的まで与えてきた始末だ。

占いに頼っているわけではないが、人生の勉強と思ってそのカードの持つ意味を毎日youtubeで聞いている。今日のカードは自分を癒し大切にして愛することが重要であると解説があった。だけれど私は私自身を傷つけたことはないし、むしろ隠されていた酷いことが私に明かされるまではできる範囲で人生を楽しんでいた。普段は暗い中を歩いているようだったけれど、周りに自分の置かれている状況をどうわかってもらえればいいのかわからず(相手方は私の状況を知っていた)ただその場の雰囲気に馴染むように心がけていた。日々過ごす暮らしにも自分自身を痛めつけることがないように過ごしてきた。けれどそうやって丁寧に生活を送ろうとしてても、結局は見えない力で、生まれてこの方強制的に無理強いさせられていたのである。人の努力や頑張りにはリミットがあると感じているけれど、私の現状はリミットを遠の昔に超えているのにいまだに理由なくいたぶりを受けなければならない状況なのである。いくら考えてもこの状態における答えが出てこないので、これには疑問しか残らない。

そのような状況で私のバロメーターの喜びの部分は空っぽで、いつまでも埋まらない状態が続いている。私にとって喜びのバロメーターを満タンにするためには、いい加減自分のやりたいことをやることなのである。しかしお金は奪われ、仕事する意欲も奪われ、行動力も奪われ何もできない状況であることも事実だ。身体を動かそうにも動かせないし、こうゆう状態を続けていることで精神が疲弊させられて、私は身体が喜ぶことを何一つできていないのだ。人は気分が良くなる事や身体が喜ぶ事を生きがいに生きており、それがエネルギッシュに過ごすための最大の手段としている。それを実行して喜びを感じた時に、人生に輝きを持たせる一つのアイテムを手に入れたといっても過言ではない。大人であるなら尚更、自らの均衡を保つために取捨選択をすることは当然で、その結果心の乱れも軽減され必要なところに必要な分だけ補充されたバロメーターの容量はどんどん満たされ行くのだ。残念ながら私の基本項目を容量は、喜:10%怒:150%哀:450%楽:0%といったところだ。それから何度も言うが、私の体は本来の容姿からかけ離れておりそのことによって精神的にも体力的にも追い詰められている。

内容の話ではないが『人は見た目が9割』たる本が出版されてもいる。ほとんどの人がこのタイトルに納得しているのが現状なのは、進学や入社のために面接を設けられていることでその重要性を認知しているのだ。進学や入社に関して言うならば、例えば良くない状況を打破してくれるような人を採用出来たのならその組織の改善に貢献できるし、面接によってポテンシャルを見出してもらえたならば組織に貢献するために更なるモチベーションの向上につながる。それはその人がその人なりに自分の人生を考えて、自分を輝かせる取捨選択をしてこれた証でもあるのだ。人生を輝かせる為に取捨選択をするが邪な心を持たず、欲する以上の欲に溺れなかったときに容姿は勿論のこと、これまでの積み重ねが人格が見た目に現れてくるのだ。見た目容姿に関しては、男性よりも女性の方がかなり周りを気にする。こんなこと本当は書きたくないけれど、女性の私の容姿を操りハチャメチャにして人生を狂わすのは、三十九歳で男性経験が少なくても妊娠出産を望んでいる私を再び奈落の底に落とすようなもので、これを機に私は女性としての経験をできずに人生を終わらせないといけなくなるのだ。未だに座るにも立つにも歩くにも、ましてや呼吸をするにも支障きたすような身体では、人生で何も成就させられないまま一生を終わらせなければならなくなるかもしれないのだ。悲しいと言ったらない。今にも大泣きしそうなのだから。

 

私の周りには欲にまみれた奴らがゴロゴロいるせいでこんな状態をよしとする状況に貶められている。そいつらの欲によって行動を制限させられ、なぜか身体を乗っ取られ、本来の自分の姿を一度も見たことがない。そんな状態では私のバロメーターは何時までたっても怒りと哀しみでいっぱいで、今もそうなってしまったけれど喜びと楽しみを受け付けられなくなってきているのだ。前みたいに喜ぼうとすると感情が変に高ぶって、寧ろ喜んだことに拒絶反応が出る位だ。いくら私が頑張っても操られている限り私の積極性が見出せなくなり、喜びと楽しみのバロメーターは何時まで経っても満タンにはならないだろう。私の場合はその二つのバロメーターが満タンになって初めて本来の私が開花されるのである。❝妖精さん❞が強制的に私の頭に運んできた言葉に「どんな状態でも受け入れる」とゆう言葉があった。なんて酷い言葉なのだろうと思った。人をハチャメチャにして身体がゆうこと利かなくなった状態でも、人の気持ちをどう考慮した言葉なのだろうか。そうゆうところは尊重すべきところではないし、なぜそうさせられなければならなかったのかを十分に考察すべき課題でもある。

私はこの状態に追いやられた背景には、欲塗れの独りよがりで貧相な考えを持った奴らがいる。自身の生い立ちが嫌で私にしわ寄せをしていることが続いている。これは嘘でも笑い話でもなく事実である。この世に生を受けるときは自分で選んで自分で生まれてきているのに、人と違うことを強みにせずそれを他人にしわ寄せをすることであなたのバロメーターを満たしてはいけない。自分がやられたらどう感じるのか、わからない考えられない人がこうゆうことをしてくるのだ。人々の生活には戒律が付きまとう。それは宗教を熱心に進行していなくても、お天道様が見ているのだ。

今日が私の誕生日だ!!!

昨夜はここ数年毎度のこと、寝支度が出来ずに眠りについた。睡眠時間もまた操られていると感じており、起きるのではなく起こされている感覚だ。それに体の不調も長年不明のままで、身体には変な感覚がいつも抜けないし何もしていないのに心身がいつもすり減り身体に受けるダメージが半端ない。

私は幼い頃から一人で過ごしてきたと言っても過言ではない。実の家族から引き離され小さいながらも、自分が生まれた場所とは別のところに居ることを知っていた。代わる代わる家に来る他人の誰かに『おうちに帰りたい』と四歳か五歳の時に泣きながら訴えたけれど、勇気をもって助けてくれる人は誰一人として居なかった。なので二歳になる前辺りから私は、今居る家でただの操り人形として生かされているのである。そして誰も何も教えてくれなかった。唯救いだったのは気心の知れた友達がほしかったけれど、私を取り巻く環境が環境だけに友達が出来なかった。それでも若気の至りで頑張れたから、それを吹っ切ってでも過ごせたのだと思う。だから周りをよく見ようと努力もできた。何でもがむしゃらに出来るのは本当に若い頃だけだと実感したのも、悲しいかなこの環境のお陰である。

人の努力の限界は人により変わるけれど、私の努力の息が少し長かったのが更なる最悪の事態を招いたのかもしれない。私の努力のリミットは三十歳辺りからで、そこを境に下降気味になっていった。状況は単純に『何か疲れてきた』から始まる。それでも行く宛の無い私は、仕事しか生きる喜びを見出だせない環境に身を置いていたこともあり、何もしないともぬけの殻になるからその後も働かなければならなかった。頼る宛も無い為起きて働いて家に帰って寝るの繰り返しで、三十路を過ぎると流石にこれまでの仕事人生でこれと言って成し遂げたことがなかったから、そのループに毎日疲弊していた。こんなループを繰り返しても何も生まれないと感じ、契約社員をやめ人生を考え直そうと思っていた。そして三十五歳の時契約満了でその仕事を辞めた。仕事の話とは別で雇用系態に対して不満があったけれど、ここでは省略しておく。

残念ながら仕事を手放してからも最悪なことが続いている。数日前にあった小田急線車内での切りつけ事件は、私ももれなくそうさせられてても可笑しくはない出来事だった。“私も”と表現したが、誰が標的になっても可笑しくない事態なのである。そして正に今の私の状態も、違う形で“妖精さん”が私を取り巻いているのでこの特にこの四年間は何も出来ず仕舞いにさせられている。そして身体をボロボロの状態で、生活に支障が出ている状態のまま今日誕生日を迎えた。私の本当の年齢は二〇二一年八月十九日で三十九歳になる。これ迄は学年も一つ下で他人の誕生日を使わさせられていたけど、何一つ正しくない人生に我慢がならないのでこの誕生日に変えることにした。今日の誕生日は私が勝手にその日に定めたわけではない。頭の中で繰り広げられる展開から見出だした結果なだけである。多分戸籍を辿れば本当の事が見えてくるのだろうけれど、それを知るにも何かしらのふざけた“障害”が付き纏うと思うので今はそれを知るために奔走したくはない。

そして誕生日を迎えた今、身体だけでなく人生までもボロボロにさせられようとしている。人としての尊厳すらない私は、女性としても認められていないようだ。とゆうのもこれ迄の男性経験もままならない状態でボロボロにさせられて、何一つ治らない身体しか私には残っていないのだ。仕事していた時も先の人生に淡い期待を寄せていたが、このままでは良くないと感じていてもその時も私にどうこう出来る問題ではなかった。女性に生まれたからには、恋愛結婚妊娠出産子育てを経験したいと未だにその淡い期待を抱いている。でも私の身体なのに私に権限が無いから今こんな酷い状態のままにさせられている。頭の中で赤ちゃんを期待されたり、感情を操られて本当の今の感情を押し潰されてやけにハイテンションにさせられたり、今の本当の私の状態すら私が把握できていない。こんな状況状態で何を期待させられなければならないのだろうか。それにもう一つ懸念がある。それはバセドウ病と称され処方された薬を服用してしまったことだ。これも薬を飲むなと頭の中に知らせが来た。何故か直接来て言伝(ことづ)てすら出来ないらしい。

私は三十九歳になった今も、自分では何も出来ない状態にさせられているのだ。人生が辛いから誕生日を気にしないようにしてきたけれど、毎年毎年唯歳を数えるだけの暗い日に落胆することしか出来ないのだ。話は戻るが、女性であれば少なからず女性としての責務を果たしたいと願うものだ。それだけではないが、誰かの手によって心身を死せらめす事になってはいけないのだ。防御には限度があり、努力できるときまでが限度なのだ。頑張れ頑張れと言われたって何を頑張らなければならないのだろうか。今の私を取り巻く環境は、まるで若気の至りを永遠と続けなければならないように設定されているようだ。こんな誕生日を何時まで続けなければならないのだろうか。

 

Googleにお祝いされた2021年8月19日午前8時、ありがとう。

名曲が名曲である由縁

以前に書き溜めていた記事の一つである。これまでの人生経験を元に、社会を傍観していたときの事をまとめた。これを一つの意見として見て貰えれば幸いです。


名曲は論理に乗っ取ったシンプルな作りである。一見複雑に聞こえる和音も紐解けば各調の組み合わせやそれから派生する音に過ぎず、乱暴乱雑な音の運びはない。「美しい音」と一括りにするには勿体無くて、ここは可愛らしい表現でここはまるで楽園を彷彿させる箇所で、将又(はたまた)おぞましい雰囲気を漂わせておりこの小節からは更なる闇へと誘(いざな)われるようだ等、「美しい音」に含まれる情景は人や自然界の摂理をふんだん盛り込んだ結果の表現なのである。
世の中が疲弊し解決の糸口が見えず問題が山積みになる状態は、コンテンポラリーをも凌ぐごちゃごちゃな譜面を演奏しているに過ぎない。音楽は演奏を以て曲が完成され、作曲家指揮者奏者全ての結晶が集まり評価が下される。それぞれを、特権階級が作曲家で中産階級が指揮者下層を奏者と置き換えるならば、問題を作っているのは作曲家になる。譜面に対して基本的には物を申すことが出来ず譜面通りに進めようとする指揮者と、指揮者に従わざるを得ない奏者は何れも上からの指示を変えられない、服従のような構図があるからだ。名曲であれば三位一体で共通認識のもと何の問題もなく三者の調和が見られるが、それらの一つにでも不穏が生じると自ずとその分だけ解釈が多岐にわたり混乱を招く要因になる。しかしこの三者には揺るがすことの出来ない共通認識があり、それは社会にある当たり前の常識と同じでしかしその共通認識を以てでさえも一番強い存在は奏者である、と実感できる。
奏者の強さとは、音拍間合いをとるプロであり論理的に物事を進める性質が備わっていることだ。奏者の論理は自然の摂理を理解するのと同じで、狭い空間に感じるかもしれないけれどその環境に身を委ねれば、リズムや調和の取れた音が体に心地よくその感覚を理解できた時、奏者全体の共通認識が生まれるのである。奏者である以上その席を譲れなくていがみ合ってても、上達した暁には仕方なくでも認めてもらえるものである。これは双方の関係性が上下関係でなくてもいがみ合わずに人として認めるべき処を認め、当然の行動に一歩前進した事への敬意なのだ。奏者の持つ強さは具現化する者であるとも言える。これは指揮があって具現化できる事でもあるが、観客(相手)に対してその曲の持つ意味合いを具に伝えられる人であるからだ。もしそれが中途半端な表現になれば、伝わらないこともあるし伝えられないこともある。だけれど、全ての理解の分だけ三位一体の強固さはどんどん増していくのである。

世の中が抱える問題の多くは、本来であれば数人しか理解できていない考えを寄ってたかって集まった人々がそれぞれに論じている事であろう。だから一つの問題でも複雑奇怪に感じるし、それが一つの問題から派生していることが特定の人以外わからないままなのである。
世の中で起こる問題は超常現象でない限り人が作り出したものに過ぎない。現代の目まぐるしさを以て視ると、実は諸問題の一つ一つがアナログすぎて逆に複雑に捉えているだけなのかもしれない。また気持ちの移ろいが多い人達によってその考えは変形を繰り返し、共通認識を持たないまま時間を過ごすことで混乱を招いていることもあるのだ。
名曲が名曲である由縁は、自然の摂理に則った流れを汲んでいるからこそ人々に愛されるのである。

人間関係で絶対にあること

昔に書いていた記事を載せようと思う。何回か読めば「あるある」なことと気付くので読んでみてね。人間関係って時が悪ければこうなる事を早めに知っておいて欲しいので、よく考えて読んでね!!

第一部 状況

〖は〗〖に〗の二人がいるとする。〖は〗は知ったかをかます社会の常識に疎い人で、〖に〗は社会の常識に則った言動をする人である。大抵〖は〗の特徴としては、付け上がるやつが多いため常識の軸が自分で社会の常識と少し位ずれがあっても、自分の常識が周りの常識と考えているので一般常識を常識として通用させないか、全ての事象について断言し社会常識を無視する人もいる。そんな時その二人がグループで成し得なければならないことが起こってしまった。

物事に対し〖に〗は常識の範囲内で物事の良し悪しを判断し最適な状態を考え保とうとするが、大抵〖は〗はそうゆう時〖に〗に比べて経験則が足りないのか常識は自分になりすぎているのかふざけているのかただのバカなのか、〖に〗の起こすことに対していちゃもんを付けてくる。もし〖は〗にある程度の常識があれば、いちゃもんは初期の段階で収まるか〖に〗側が筋立てて論じれば納得することもあるだろう。けれども面倒なことに筋立てられた内容が全うすぎるからか、何故か〖は〗はこれを根に持っておくことが多い。
もし〖は〗がそれを全うするに値する経験則や常識を持っていたならば、〖は〗は自らの無知を利用して〖に〗に対し嫌がらせをしていることになる。〖は〗の行動は、初めは知らないことを教えて貰い納得する素振りをするが、それだけの経験則がないので裁量の判断ができていない。〖に〗に対し形式上の討論を仕掛けても、〖は〗の求める内容は大概常識的な会話からずれており持ち出された議論は、既に過去に論じられているであろう内容だったりもする。それでもなお〖は〗は〖に〗に対して常識から外れた持論をあげつらえ、〖に〗が常識的に行おうとする言動を阻害し始める。
〖は〗はこれにより〖に〗の行うこと全てをバカにしはじめ、〖に〗の持っている常識を潰し正しいのは〖は〗の所有している常識である、と〖に〗に態度で示しそれを豪語し出す始末だ。そうなれば確固たる常識を備えた〖に〗でさえも、周囲の言動の変化に自分の常識を疑い始める。そうなれば〖は〗は第一段階の〖に〗の動揺する姿に満足感を覚え、第ニ段階へと進む。

第二部

第二段階では頑なに〖に〗の常識を認めない行動をし出す。しかし〖に〗の常識は社会全体の常識でありそれを弁(わきま)えている。〖は〗はそれに歯向かうことで社会の縮図を作り出し、〖は〗が持つ考え(常識的ではない)も社会の一部であると、でかでかと主張する行動をとる。しかも絶対断定的な言葉では伝えずに〖は〗が持つ理想を、希望や誹謗中傷として〖に〗に伝えるのである。第二段階でも〖は〗は自分の思う通りに進むよう〖に〗に取り組ませようとする。しかし〖に〗は、常識を基に物事を進める上で蔓延る要因を精査しながら物事を進めるが〖は〗に対し常識を基に物事の流れを正しく伝えても、勿論〖は〗はそれに対して納得した素振りは見せず常に強気の姿勢で〖に〗に対して接し、幾らそれが正しいことと判断できてもそれを認める様子を示さない。
流石の常識を常識と思わない頭の固さに痺れを切らして、〖に〗は第三者に〖は〗への説得を依頼する。基本、このような場面で出てくる第三者はどっち付かずの応対をする人が多い。〖に〗は状況を鑑みて最適に修まる方法を勘案して動いているのに、〖は〗はそれに非協力的でそれを遮るような行動をとっており先に進めないと第三者に伝る。
〖は〗のとった行為は第三者からの指摘を受けないと動かないわがままな行為だ。〖に〗の取とった行動が最適である(認識によっては正しいとも捉えることができる)と第三者も認めると判断した場合などに起こることが、これは〖は〗が第三者を通してでないと〖に〗の言動を認められないと示している態度なのだ。このような場合〖は〗が事の主導権を握っており、第三者と〖に〗が互いに努力して理解させようとしても、事の成り行きを左右するのはもはや〖は〗の行動にかかっているのだ。〖は〗の機嫌を取りながらなので、進めたい物事が進まない状況に貶められているのである。

結びとして

もしこれが仕事のプロジェクトを遂行している最中に起こったのなら、周りが〖は〗を持ち上げちやほやさせているのかもしれない。それによって〖に〗を含む周囲は気疲れで疲弊し、一部の空気でなく全体の空気を悪くしていることに〖は〗は気付かないのか、その状況を当然だと思っている。〖は〗のような人は言葉に限度がある事を解っていない。言葉は言霊とも言われ、発した人の心の状態が現れているからだ。私の場合、育った環境が良くなかったからか覚える単語も悲観的なものが多く、それによって自分自身が奈落に落とされていることも解っていた。幾ら考えようにも気持ちを明るくする言葉は出てこなかった。二十代半ばに、苛ついて出てきた言葉は「憤(いきどお)ろおしい」で、何て醜い言葉なのだろうかと自分の置かれた環境をこんなにも憎んだことはなかった。環境くらい自分で変えるのが筋であると考える人が大勢いるでしょうけれど、その状況は社会人になってから育ての親に阻止されてしまった。もしこの状況を聞いて、更なる別の道があったと言ったりそれを努力が足りないと言う人は、人々の認識をかき回すのに飽きたらずその人の変えられない環境をただ侮蔑するだけにしかならないのだ。「あーだこーだ」と可笑しな持論や屁理屈を垂れても、誰にも歓びや嬉しさや愛情は生まれないし、寧ろ人々を詰まらない世界へと導く結果となってしまう。言葉によって物事の制限が効かなくなる事態は、最悪の場合戦争殺人自殺を招く程に重大な事と認識しなければならない。

 

けれどもこの世の中にまともな“上司”がそこにいるならば、追々〖は〗は何かしらの処分を受けることになるだろう。けれどもそれまでは辛い道のりである。

人生は甘めでいいと思う。

人生は甘めでいいと思う。何故なら、そういった世界にこそ平和や調和があると思うからだ。これはルール無く甘やかされてわがまま放題の世界の事を言っているのではない。そんな世界だから、今も事件や事故が相次ぎ人同士のいがみ合いは終わらない。

環境に思うこと

人々が暮らす世界は、昔は戒律を厳守して生活することが当たり前だった。その中にある小さな幸せを噛み締めて毎日を過ごしてきた。そういった幸せは神がもたらしてくれるから、神様に感謝しこれかも見守って戴けるように祈っていた。今はとゆうと、そんな古臭い考えは必要なく今がよければそれでいいとゆう考えになってしまった。確かに宗教や信仰を心の拠り所にするのは、現代においてはお節介事が増える原因にもなるし、最も古臭い考えを常日頃から押し付けられてやるせないのかもしれない。だけれどその古臭い考えや思想は何処へ行ってしまったのかとゆうと、常識や国の文化や法律によってその姿を変えたに過ぎないのである。今ではそういった風習を公にせず、個々人の常識を以て成り立たせようとしているのだ。だから同じ常識を持っていない家同士では、噂をたてられたり白い目で見られたり指を指されるのである。

そこの地域の常識が特殊だと、一般的な常識を持った人がそこにいるのは大変だし、その常識を元に指を指されるようでは心外この上ないだろう。環境に任せっきりにするのではなく、先ずは心に感じる常識を以て人と接してみれば何が駄目で何が正しいのかが自分で判断できたり、人から指摘される事で一つの常識の醸成があると感じている。

考え方の違い

私が出会ってきた人は往々にして駄目人間が多い。若い頃にこれを言うと駄目人間共からでかい声で、内容の薄い返答があっただろう。高校時代で言うと、世代が同じにも関わらず同級生を幼稚園児にしか見えなかったことだ。とゆうのも、考えが余りに幼すぎて言葉の節々を捉えて質問返ししようとするならば「何でそんなこともわからないの」と逆に言われる始末で、常にストレスで疲弊していた。しかもその人達は信じ混んでいる常識をばら蒔きはするけれど醸成をさせないので、個々人が持ち合わせている常識が一般常識と勘違いしている節が強く感じられた。内容の薄い返答には「だからなんなの」と感じることが多くて、その先の閃きを一切感じられないので、意見してくるくせにその人の考えが見出だせない。しかも結局「何が言いたいの」と煮え切らない事しか言ってこない始末で、なのでそれを伝えると唯唯黙って変な強がりを見せるのが常なのである。こういった変な強がりを見せるからか、自分で自分自身を認められなくて相手に何かを問うて解決することすら出来ないのである。その人達が余りにも可笑しな常識で育ってきたせいか、変に強がって自身の問題解決すら出来ていないのである。しかも結局出来損ないと意見を交換するだけなので、その意見に固執して結局はその仲間内の為すがままの流れに身を任せるだけなので、何の成長も感じられないのである。

甘い人生を送る

私が表現した【甘い】とはどう捉えることができるだろうか。黒グレー白で表すならば、グレーが甘い人生と思っている人が多くいるだろう。しかしグレーゾーンにいて面倒を避けていても、いつか必ずしっぺ返しに合う。私が言う甘い人生とは、常識を弁(わきま)えて常識に則った行動の中に特定の人達が不自由無く暮らせる幸せな空間なのである。そういった幸せがあるからこそ、それを妬む人も現れる。だけれど妬むよりも前に、自分の幸せを確立して周りから羨ましがられるようになった方が、お互いの気持ちも曇ること無く美しい世界創られると私は想う。