わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

バロメーターの残量

このことについては、今疲弊させられているから考えることができたのだろう。私の持論としては、人には決まった項目のバロメーターが備わっていると感じている。一番わかりやすい項目の基本として喜怒哀楽が挙げられるだろう。嬉しいことがあれば喜びのバロメーターが満タンになるし、悲しいことや怒りを覚えれば哀しみや怒りのバロメーターが満タンになって喜びのバロメーターは見る見る内に空っぽになってしまう。今の私の状況はこの状態に近い。 今日が誕生日 でも述べているが、私はどこかの❝妖精さん❞によって身体を変えられ行動を制限させられている。それは身体を動かすことだけではなく内蔵の分泌までもが制限にあっていて、生理なんてまともに来ない。今は仕事もできなければ、身体はボロボロにされているにも関わらず何かの力によって身体が動く状態にさせられており、そして本当の感情は悲しくて悔しくて怒りに満ち溢れているのに平静を保たされている状態なのだ。こんな窮地に居るのにどこぞのやくざは私に死の目的まで与えてきた始末だ。

占いに頼っているわけではないが、人生の勉強と思ってそのカードの持つ意味を毎日youtubeで聞いている。今日のカードは自分を癒し大切にして愛することが重要であると解説があった。だけれど私は私自身を傷つけたことはないし、むしろ隠されていた酷いことが私に明かされるまではできる範囲で人生を楽しんでいた。普段は暗い中を歩いているようだったけれど、周りに自分の置かれている状況をどうわかってもらえればいいのかわからず(相手方は私の状況を知っていた)ただその場の雰囲気に馴染むように心がけていた。日々過ごす暮らしにも自分自身を痛めつけることがないように過ごしてきた。けれどそうやって丁寧に生活を送ろうとしてても、結局は見えない力で、生まれてこの方強制的に無理強いさせられていたのである。人の努力や頑張りにはリミットがあると感じているけれど、私の現状はリミットを遠の昔に超えているのにいまだに理由なくいたぶりを受けなければならない状況なのである。いくら考えてもこの状態における答えが出てこないので、これには疑問しか残らない。

そのような状況で私のバロメーターの喜びの部分は空っぽで、いつまでも埋まらない状態が続いている。私にとって喜びのバロメーターを満タンにするためには、いい加減自分のやりたいことをやることなのである。しかしお金は奪われ、仕事する意欲も奪われ、行動力も奪われ何もできない状況であることも事実だ。身体を動かそうにも動かせないし、こうゆう状態を続けていることで精神が疲弊させられて、私は身体が喜ぶことを何一つできていないのだ。人は気分が良くなる事や身体が喜ぶ事を生きがいに生きており、それがエネルギッシュに過ごすための最大の手段としている。それを実行して喜びを感じた時に、人生に輝きを持たせる一つのアイテムを手に入れたといっても過言ではない。大人であるなら尚更、自らの均衡を保つために取捨選択をすることは当然で、その結果心の乱れも軽減され必要なところに必要な分だけ補充されたバロメーターの容量はどんどん満たされ行くのだ。残念ながら私の基本項目を容量は、喜:10%怒:150%哀:450%楽:0%といったところだ。それから何度も言うが、私の体は本来の容姿からかけ離れておりそのことによって精神的にも体力的にも追い詰められている。

内容の話ではないが『人は見た目が9割』たる本が出版されてもいる。ほとんどの人がこのタイトルに納得しているのが現状なのは、進学や入社のために面接を設けられていることでその重要性を認知しているのだ。進学や入社に関して言うならば、例えば良くない状況を打破してくれるような人を採用出来たのならその組織の改善に貢献できるし、面接によってポテンシャルを見出してもらえたならば組織に貢献するために更なるモチベーションの向上につながる。それはその人がその人なりに自分の人生を考えて、自分を輝かせる取捨選択をしてこれた証でもあるのだ。人生を輝かせる為に取捨選択をするが邪な心を持たず、欲する以上の欲に溺れなかったときに容姿は勿論のこと、これまでの積み重ねが人格が見た目に現れてくるのだ。見た目容姿に関しては、男性よりも女性の方がかなり周りを気にする。こんなこと本当は書きたくないけれど、女性の私の容姿を操りハチャメチャにして人生を狂わすのは、三十九歳で男性経験が少なくても妊娠出産を望んでいる私を再び奈落の底に落とすようなもので、これを機に私は女性としての経験をできずに人生を終わらせないといけなくなるのだ。未だに座るにも立つにも歩くにも、ましてや呼吸をするにも支障きたすような身体では、人生で何も成就させられないまま一生を終わらせなければならなくなるかもしれないのだ。悲しいと言ったらない。今にも大泣きしそうなのだから。

 

私の周りには欲にまみれた奴らがゴロゴロいるせいでこんな状態をよしとする状況に貶められている。そいつらの欲によって行動を制限させられ、なぜか身体を乗っ取られ、本来の自分の姿を一度も見たことがない。そんな状態では私のバロメーターは何時までたっても怒りと哀しみでいっぱいで、今もそうなってしまったけれど喜びと楽しみを受け付けられなくなってきているのだ。前みたいに喜ぼうとすると感情が変に高ぶって、寧ろ喜んだことに拒絶反応が出る位だ。いくら私が頑張っても操られている限り私の積極性が見出せなくなり、喜びと楽しみのバロメーターは何時まで経っても満タンにはならないだろう。私の場合はその二つのバロメーターが満タンになって初めて本来の私が開花されるのである。❝妖精さん❞が強制的に私の頭に運んできた言葉に「どんな状態でも受け入れる」とゆう言葉があった。なんて酷い言葉なのだろうと思った。人をハチャメチャにして身体がゆうこと利かなくなった状態でも、人の気持ちをどう考慮した言葉なのだろうか。そうゆうところは尊重すべきところではないし、なぜそうさせられなければならなかったのかを十分に考察すべき課題でもある。

私はこの状態に追いやられた背景には、欲塗れの独りよがりで貧相な考えを持った奴らがいる。自身の生い立ちが嫌で私にしわ寄せをしていることが続いている。これは嘘でも笑い話でもなく事実である。この世に生を受けるときは自分で選んで自分で生まれてきているのに、人と違うことを強みにせずそれを他人にしわ寄せをすることであなたのバロメーターを満たしてはいけない。自分がやられたらどう感じるのか、わからない考えられない人がこうゆうことをしてくるのだ。人々の生活には戒律が付きまとう。それは宗教を熱心に進行していなくても、お天道様が見ているのだ。