わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

お天道様からの恵み

今年の九月は例年にない天候で始まった。八月も私の知っている八月らしい気候が続いた。八月の下旬からまた雨が降り出したが、その雨の降りようはまるで梅雨時期の様でどこか静けさが感じられた。冷夏の年は七月八月と寒い日が続くけれどそれとも違う。異常気象が十年以上続き、天候がどんなだったかも記憶から薄れている人が多くいるだろう。最も、天候を気にしながら生きたことがない人は多数いることも事実である。例えば強風が吹くと常々想うことがある。昔はこんな強風が吹けば家はがたつくし、例えば整備した土地がごちゃごちゃに乱される事もあっただろう。これは天からのお叱りでもあったし、過去には祈祷する事でそれを回避しようとも試みられていた。今日においては科学の発展で気象を操る研究まで行われているが、そのことによって人が迷惑を被るだけでなく自然を取りまく環境が循環しなくなってしまった。

四季は寒い冬が明けて春には植物が芽吹き始め花を咲かせ過ごしやすい気候になり、そのあとに梅雨に入りよく気持ちが滅入る事がある。梅雨が明けると漸くすがすがしいほどの晴れが続く夏が到来し、徐々に朝晩の気温差が生じ始め台風の時期を迎える。台風が過ぎると秋晴れが続きそしてまた雨の日が続いて冬に向かって寒さが増していく。

四季を繰り返す事で生活リズムが整い、これまでよりも季節の変化を繊細に感じるられる。北で幼少期を過ごしたから尚更そう感じるのかはわからないが、私が幼いころは今よりも雪解けも遅く関東や雪深くない処のような春を感じる事はない。雪解けが七割も過ぎれば、気持ち的にもすがすがしく感じてくる。五月は気温がまだ低く肌寒い日が続くけれど天気は良く、六月に入って漸く薄着で毎日を過ごせるようになるのだ。だからか関東に越してきて、北とは違う気候の変化に敏感なのかもしれない。冬は曇りの日が長く続き、雲の分け目から綺麗な青空が垣間見れてそれが印象に残っている。また雪深い季節に青空を見られる事は少なく、それを見ると気持ちに一息つけるのも北国の四季の醍醐味なのかもしれない。これはあくまでも個人的な感想でしかないが、どこに住んでいてもお天道様からの知らせを聞くことは可能だ。それは個人的な感覚や感想ではなく、気候を肌で感じられないとお天道さまからの知らせを聞くことはできないのだ。それを聞けなければ魂に訴えかけられず成長すらできないと思った方がいい。

風が吹いている表現には、ある地域のみで使われている言葉を含めて百種類以上の表現がある。科戸の風はめったに吹かない貴重な風である。

科戸の風(しなとのかぜ)風の美称。罪や穢れを吹き払う風。「し」は「風」、「な」は「の」、「と(ど)」は「処」の意。風の名称辞典

この風を感じられるのは人生に何度とあるか知れない。私の場合、この風に気付けた事は人生で二回しかない。昔その風を感じた時はまるで自分の存在が否定されているように感じられた。その時はまだ学生だったこともあり、成長過程での変化を欲していたにも関わらず辛い環境にいつまで身を置かねばならないのかとゆう問いには、そのままでいる様にと肌感覚で伝えられたことがあった。それから何十年と経て今年(二〇二一年)の五月下旬にまた科戸の風を感じることが出来た。

その風は南西若しくは西南西から吹いた。科戸の風はそよ風で風自体を感じる事が非常に難しい。前回風を感じたときは現状維持を伝えられたけど、今回は今までの私の人生に対する労いにも感じられ少し救われた気分になった。この風を受けて、意味と実際では捉え方に少しずれがあると感じた。意味は「罪穢れを吹き払う」となっているが、人生の節目にこれまでの行いに対しての総括を受けられると感じた。科戸の風はこれまでの行いを通して今の状態が適切か不適切かを報せてくれるのだ。それは肌で感じることでしかわからないが、その風を感じて納得して一息付けられるかその感覚に恐れおののいて拒絶するかの二択しかない。他にも風は急に吹いて驚かし楽しませてくれたりやそよ風のようにゆったりとしていたり、強風の中には気圧の影響どうのこうのだけでは語れないものもある。

風を含めて自然の驚異は忘れてしまった考えを思い起させようとしてくれている。風はどんなに弱く吹いていてもその流れが止まることは殆どない。しかし風がはたりと止まってしまったら、それはお天道様からの悪い報せになるのだ。その報せを以て天罰が何時下されるかは誰にも判断できない。わかりやすく言えば唸るような風がそれにあてはまるがそれにすら気づけないとなると、如何に自然からかけ離れた暮らしになったのかを痛感しなければならない。

梅雨時期も含めて雨が降れば気持ちが沈むこともあるだろう。しかし雨音と雨がもたらす涼しさを感じられれば以外と気持ちが晴れやかになる。ぽつぽつ、しとしと、ざーざー、その雨と自分の気持ちが表裏一体となっている事が往々にしてある。雨音で静寂さに包まれる時は、自分自身が停滞している事の現われでもあるのだ。梅雨時期に限らず雨の日の重たい空気感に包まれる事があれば、雨音を聞いて深呼吸をしてもう少し身体の力を抜いて寛ぐ時間を設けた方がいいだろう。そして雨音に耳を傾けたり、滴る水滴を眺めてもいいし仕事の手を一旦休めて会話に花を咲かせてみるのもいいだろう。そうゆう時こそ気張らずに胸襟を開いて会話をしてみると、重たい空間を少しでも軽やかにも保てる。重たい空間になる時には知らず知らずの内にその事に没頭してしまっている現われでもあるのだ。時間に追われるのではなく、切羽詰まってきたら時間を追うように方向転換してみるべきだ。

雨の降り方にも注目したい。土砂降りは心に溜まっているものを洗い流してくれる作用がある。もしそう感じなければそう思っておくといいだろう。そして雨音が小さく静かに降る雨は悲しみを表している。さーさーと静かに雨足強く降る雨は静寂を齎(もたら)し、雨が本降りになると滝行のように、降ってくる水に対し気持ちを揺らがせてはならないような感覚になる。静寂の感じ方は人それぞれであり、その時々の状況や心情によっても捉え方が変わるかもしれない。この雨はあなたに自分自身を見つめ直す事を促しており、状況改善を求めている雨かもしれない。また雷は天からお叱りを受けていると思っていい。雷の鳴り方によっても異なるが、鳴って怖いと思うのは魂レベルで反省しなければならない事があるからだ。それはあなた自身しか知らないことだから、あなたの心と向き合うようにすればいいだけの話だ。

通常の気持ちは曇り空

人の心の様相は天候と似ていて、曇りの日が心の通常時と考えて生活した方ががいい。気持ちが曇り空であれば、気分を上げて明るくいることもできるしそれ以上に落ち込まないようにストッパーの役目を果たしてくれる。タガが外れてどこまでもおちゃらける人が居るのは、しのぎを削ることを忘れてしまっている事と同じだ。何処までも高みを求めて安住・安息の地を求めず上る事しかしないからその人の言動を止められないし、その人自身が口出しされない処まで行かないと自分自身を確立出来ないのである。今で言う「パリピ」もこの類だ。

お天道様からの恵みは得られる事だけではない。夏の暑い時期に、絵に描いたような雲で太陽の陽差しを遮ってくれるように、あなたを守ってくれることがある。信心深くなること(信心深くなること - わたしのB面ブログ)にもつながるが、日々の小さな努力の積み重ねをお天道さまは見ていて、例えば少しのずるでもお天道さまの罰の対象になるのだ。ずるの積み重ねで罰を受け体調を壊すこともある。それだけで済めばいいが、原因不明の不可解なことが起こる事も考えられるので下手なことはできないだろう。人がいがみ合わずにそれぞれが自然体で過ごすことが最優先事項で、自分の今の現状を自然から聞き取れるようになり日々自分の言動を見つめ直すことが出来れば、お天道様からあなたへ天からの恵みがあるかもしれない。

 

【番外編】

虫を毛嫌いする人は多いだろう。気持ち悪い、都会にいる事が相応しくない等様々な意見があるだろう。おばあちゃんの家はコンビニまで車を走らせても四五十分かかり、家の周りに商店すら無いようなところだ。勿論虫はいるし、けれどその中で人と虫と動物と自然が共存している。ある時縁側に這いつくばっていた私はクモを見つけた。クモは人が居たからと言ってそそくさと逃げる素振りもせず、だからと言って牽制し人の様子を伺うように硬直して動きを止めるわけでもない。その時のクモは一匹しか居なかったが隊列を組んで歩いている様で、幾つもある足を一定の速度で歩いていた。その様子を言葉で表すなら、優雅に歩いているとでも言えよう。しかし時に虫は突如人に攻撃してくることがある。何故か虫が付きまとう時は無いだろうか。それはあなたに問題があるからそうなる時が来るのだ。その問題は人それぞれで、その人しか知りえない。その後問題が無いと分かれば自ずと虫たちから近寄らなくなる。世界はわからないが日本はそんな国。

(2021年9月17日 更新)