わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

人生は甘めでいいと思う。

人生は甘めでいいと思う。何故なら、そういった世界にこそ平和や調和があると思うからだ。これはルール無く甘やかされてわがまま放題の世界の事を言っているのではない。そんな世界だから、今も事件や事故が相次ぎ人同士のいがみ合いは終わらない。

環境に思うこと

人々が暮らす世界は、昔は戒律を厳守して生活することが当たり前だった。その中にある小さな幸せを噛み締めて毎日を過ごしてきた。そういった幸せは神がもたらしてくれるから、神様に感謝しこれかも見守って戴けるように祈っていた。今はとゆうと、そんな古臭い考えは必要なく今がよければそれでいいとゆう考えになってしまった。確かに宗教や信仰を心の拠り所にするのは、現代においてはお節介事が増える原因にもなるし、最も古臭い考えを常日頃から押し付けられてやるせないのかもしれない。だけれどその古臭い考えや思想は何処へ行ってしまったのかとゆうと、常識や国の文化や法律によってその姿を変えたに過ぎないのである。今ではそういった風習を公にせず、個々人の常識を以て成り立たせようとしているのだ。だから同じ常識を持っていない家同士では、噂をたてられたり白い目で見られたり指を指されるのである。

そこの地域の常識が特殊だと、一般的な常識を持った人がそこにいるのは大変だし、その常識を元に指を指されるようでは心外この上ないだろう。環境に任せっきりにするのではなく、先ずは心に感じる常識を以て人と接してみれば何が駄目で何が正しいのかが自分で判断できたり、人から指摘される事で一つの常識の醸成があると感じている。

考え方の違い

私が出会ってきた人は往々にして駄目人間が多い。若い頃にこれを言うと駄目人間共からでかい声で、内容の薄い返答があっただろう。高校時代で言うと、世代が同じにも関わらず同級生を幼稚園児にしか見えなかったことだ。とゆうのも、考えが余りに幼すぎて言葉の節々を捉えて質問返ししようとするならば「何でそんなこともわからないの」と逆に言われる始末で、常にストレスで疲弊していた。しかもその人達は信じ混んでいる常識をばら蒔きはするけれど醸成をさせないので、個々人が持ち合わせている常識が一般常識と勘違いしている節が強く感じられた。内容の薄い返答には「だからなんなの」と感じることが多くて、その先の閃きを一切感じられないので、意見してくるくせにその人の考えが見出だせない。しかも結局「何が言いたいの」と煮え切らない事しか言ってこない始末で、なのでそれを伝えると唯唯黙って変な強がりを見せるのが常なのである。こういった変な強がりを見せるからか、自分で自分自身を認められなくて相手に何かを問うて解決することすら出来ないのである。その人達が余りにも可笑しな常識で育ってきたせいか、変に強がって自身の問題解決すら出来ていないのである。しかも結局出来損ないと意見を交換するだけなので、その意見に固執して結局はその仲間内の為すがままの流れに身を任せるだけなので、何の成長も感じられないのである。

甘い人生を送る

私が表現した【甘い】とはどう捉えることができるだろうか。黒グレー白で表すならば、グレーが甘い人生と思っている人が多くいるだろう。しかしグレーゾーンにいて面倒を避けていても、いつか必ずしっぺ返しに合う。私が言う甘い人生とは、常識を弁(わきま)えて常識に則った行動の中に特定の人達が不自由無く暮らせる幸せな空間なのである。そういった幸せがあるからこそ、それを妬む人も現れる。だけれど妬むよりも前に、自分の幸せを確立して周りから羨ましがられるようになった方が、お互いの気持ちも曇ること無く美しい世界創られると私は想う。