わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

人間関係で絶対にあること

昔に書いていた記事を載せようと思う。何回か読めば「あるある」なことと気付くので読んでみてね。人間関係って時が悪ければこうなる事を早めに知っておいて欲しいので、よく考えて読んでね!!

第一部 状況

〖は〗〖に〗の二人がいるとする。〖は〗は知ったかをかます社会の常識に疎い人で、〖に〗は社会の常識に則った言動をする人である。大抵〖は〗の特徴としては、付け上がるやつが多いため常識の軸が自分で社会の常識と少し位ずれがあっても、自分の常識が周りの常識と考えているので一般常識を常識として通用させないか、全ての事象について断言し社会常識を無視する人もいる。そんな時その二人がグループで成し得なければならないことが起こってしまった。

物事に対し〖に〗は常識の範囲内で物事の良し悪しを判断し最適な状態を考え保とうとするが、大抵〖は〗はそうゆう時〖に〗に比べて経験則が足りないのか常識は自分になりすぎているのかふざけているのかただのバカなのか、〖に〗の起こすことに対していちゃもんを付けてくる。もし〖は〗にある程度の常識があれば、いちゃもんは初期の段階で収まるか〖に〗側が筋立てて論じれば納得することもあるだろう。けれども面倒なことに筋立てられた内容が全うすぎるからか、何故か〖は〗はこれを根に持っておくことが多い。
もし〖は〗がそれを全うするに値する経験則や常識を持っていたならば、〖は〗は自らの無知を利用して〖に〗に対し嫌がらせをしていることになる。〖は〗の行動は、初めは知らないことを教えて貰い納得する素振りをするが、それだけの経験則がないので裁量の判断ができていない。〖に〗に対し形式上の討論を仕掛けても、〖は〗の求める内容は大概常識的な会話からずれており持ち出された議論は、既に過去に論じられているであろう内容だったりもする。それでもなお〖は〗は〖に〗に対して常識から外れた持論をあげつらえ、〖に〗が常識的に行おうとする言動を阻害し始める。
〖は〗はこれにより〖に〗の行うこと全てをバカにしはじめ、〖に〗の持っている常識を潰し正しいのは〖は〗の所有している常識である、と〖に〗に態度で示しそれを豪語し出す始末だ。そうなれば確固たる常識を備えた〖に〗でさえも、周囲の言動の変化に自分の常識を疑い始める。そうなれば〖は〗は第一段階の〖に〗の動揺する姿に満足感を覚え、第ニ段階へと進む。

第二部

第二段階では頑なに〖に〗の常識を認めない行動をし出す。しかし〖に〗の常識は社会全体の常識でありそれを弁(わきま)えている。〖は〗はそれに歯向かうことで社会の縮図を作り出し、〖は〗が持つ考え(常識的ではない)も社会の一部であると、でかでかと主張する行動をとる。しかも絶対断定的な言葉では伝えずに〖は〗が持つ理想を、希望や誹謗中傷として〖に〗に伝えるのである。第二段階でも〖は〗は自分の思う通りに進むよう〖に〗に取り組ませようとする。しかし〖に〗は、常識を基に物事を進める上で蔓延る要因を精査しながら物事を進めるが〖は〗に対し常識を基に物事の流れを正しく伝えても、勿論〖は〗はそれに対して納得した素振りは見せず常に強気の姿勢で〖に〗に対して接し、幾らそれが正しいことと判断できてもそれを認める様子を示さない。
流石の常識を常識と思わない頭の固さに痺れを切らして、〖に〗は第三者に〖は〗への説得を依頼する。基本、このような場面で出てくる第三者はどっち付かずの応対をする人が多い。〖に〗は状況を鑑みて最適に修まる方法を勘案して動いているのに、〖は〗はそれに非協力的でそれを遮るような行動をとっており先に進めないと第三者に伝る。
〖は〗のとった行為は第三者からの指摘を受けないと動かないわがままな行為だ。〖に〗の取とった行動が最適である(認識によっては正しいとも捉えることができる)と第三者も認めると判断した場合などに起こることが、これは〖は〗が第三者を通してでないと〖に〗の言動を認められないと示している態度なのだ。このような場合〖は〗が事の主導権を握っており、第三者と〖に〗が互いに努力して理解させようとしても、事の成り行きを左右するのはもはや〖は〗の行動にかかっているのだ。〖は〗の機嫌を取りながらなので、進めたい物事が進まない状況に貶められているのである。

結びとして

もしこれが仕事のプロジェクトを遂行している最中に起こったのなら、周りが〖は〗を持ち上げちやほやさせているのかもしれない。それによって〖に〗を含む周囲は気疲れで疲弊し、一部の空気でなく全体の空気を悪くしていることに〖は〗は気付かないのか、その状況を当然だと思っている。〖は〗のような人は言葉に限度がある事を解っていない。言葉は言霊とも言われ、発した人の心の状態が現れているからだ。私の場合、育った環境が良くなかったからか覚える単語も悲観的なものが多く、それによって自分自身が奈落に落とされていることも解っていた。幾ら考えようにも気持ちを明るくする言葉は出てこなかった。二十代半ばに、苛ついて出てきた言葉は「憤(いきどお)ろおしい」で、何て醜い言葉なのだろうかと自分の置かれた環境をこんなにも憎んだことはなかった。環境くらい自分で変えるのが筋であると考える人が大勢いるでしょうけれど、その状況は社会人になってから育ての親に阻止されてしまった。もしこの状況を聞いて、更なる別の道があったと言ったりそれを努力が足りないと言う人は、人々の認識をかき回すのに飽きたらずその人の変えられない環境をただ侮蔑するだけにしかならないのだ。「あーだこーだ」と可笑しな持論や屁理屈を垂れても、誰にも歓びや嬉しさや愛情は生まれないし、寧ろ人々を詰まらない世界へと導く結果となってしまう。言葉によって物事の制限が効かなくなる事態は、最悪の場合戦争殺人自殺を招く程に重大な事と認識しなければならない。

 

けれどもこの世の中にまともな“上司”がそこにいるならば、追々〖は〗は何かしらの処分を受けることになるだろう。けれどもそれまでは辛い道のりである。