わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

名曲が名曲である由縁

以前に書き溜めていた記事の一つである。これまでの人生経験を元に、社会を傍観していたときの事をまとめた。これを一つの意見として見て貰えれば幸いです。


名曲は論理に乗っ取ったシンプルな作りである。一見複雑に聞こえる和音も紐解けば各調の組み合わせやそれから派生する音に過ぎず、乱暴乱雑な音の運びはない。「美しい音」と一括りにするには勿体無くて、ここは可愛らしい表現でここはまるで楽園を彷彿させる箇所で、将又(はたまた)おぞましい雰囲気を漂わせておりこの小節からは更なる闇へと誘(いざな)われるようだ等、「美しい音」に含まれる情景は人や自然界の摂理をふんだん盛り込んだ結果の表現なのである。
世の中が疲弊し解決の糸口が見えず問題が山積みになる状態は、コンテンポラリーをも凌ぐごちゃごちゃな譜面を演奏しているに過ぎない。音楽は演奏を以て曲が完成され、作曲家指揮者奏者全ての結晶が集まり評価が下される。それぞれを、特権階級が作曲家で中産階級が指揮者下層を奏者と置き換えるならば、問題を作っているのは作曲家になる。譜面に対して基本的には物を申すことが出来ず譜面通りに進めようとする指揮者と、指揮者に従わざるを得ない奏者は何れも上からの指示を変えられない、服従のような構図があるからだ。名曲であれば三位一体で共通認識のもと何の問題もなく三者の調和が見られるが、それらの一つにでも不穏が生じると自ずとその分だけ解釈が多岐にわたり混乱を招く要因になる。しかしこの三者には揺るがすことの出来ない共通認識があり、それは社会にある当たり前の常識と同じでしかしその共通認識を以てでさえも一番強い存在は奏者である、と実感できる。
奏者の強さとは、音拍間合いをとるプロであり論理的に物事を進める性質が備わっていることだ。奏者の論理は自然の摂理を理解するのと同じで、狭い空間に感じるかもしれないけれどその環境に身を委ねれば、リズムや調和の取れた音が体に心地よくその感覚を理解できた時、奏者全体の共通認識が生まれるのである。奏者である以上その席を譲れなくていがみ合ってても、上達した暁には仕方なくでも認めてもらえるものである。これは双方の関係性が上下関係でなくてもいがみ合わずに人として認めるべき処を認め、当然の行動に一歩前進した事への敬意なのだ。奏者の持つ強さは具現化する者であるとも言える。これは指揮があって具現化できる事でもあるが、観客(相手)に対してその曲の持つ意味合いを具に伝えられる人であるからだ。もしそれが中途半端な表現になれば、伝わらないこともあるし伝えられないこともある。だけれど、全ての理解の分だけ三位一体の強固さはどんどん増していくのである。

世の中が抱える問題の多くは、本来であれば数人しか理解できていない考えを寄ってたかって集まった人々がそれぞれに論じている事であろう。だから一つの問題でも複雑奇怪に感じるし、それが一つの問題から派生していることが特定の人以外わからないままなのである。
世の中で起こる問題は超常現象でない限り人が作り出したものに過ぎない。現代の目まぐるしさを以て視ると、実は諸問題の一つ一つがアナログすぎて逆に複雑に捉えているだけなのかもしれない。また気持ちの移ろいが多い人達によってその考えは変形を繰り返し、共通認識を持たないまま時間を過ごすことで混乱を招いていることもあるのだ。
名曲が名曲である由縁は、自然の摂理に則った流れを汲んでいるからこそ人々に愛されるのである。