わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

探し当てたユートピアの世界

マイケル・ジャクソンの歌には地球や人の癒しを歌った曲がある。その中でも『cry』はMVの中でも感動した作品の一つだ。海辺から丘を経て都市を通り山に向かって人々が手を繋いで列を成している。曲が進むにつれ列を成していた人々も手拍子をしながら歌詞を口ずさむ。そして最後はまた手を繋いで落ち着き払った表情を見せてMVは終わる。

マイケル・ジャクソンの曲で使われている言葉で「change the world」や「hold on」が印象に残っている。動詞では「make」がよく使われていて、物事を曖昧にしないではっきりと意思を伝えているのも印象的だ。私は歌詞を訳せるわけではないが、こういった言葉からも何かを作り上げることで世界が変わる事を望んでおり、人々の行動に一歩踏みとどませる表現を「hold on」で表しているとも思うのだ。

偽り

私の身に起きている事とは、どんなことがあっても一生忘れない程の心の傷を負わされた事だ。昔みたいに心から笑おうとすると苦しくて、悲しくなって笑えなくなる。この身に起きたことを心に留めておくと何もできなくなるし、忘れようとして気分を明るくしようとしてもやはりそれが私の心に制限をかけてきて、本当に何もできなくなってしまった。こうやってパソコンに向かって文字を打ち込んでいても、どうゆうわけか悲しい気持ちになる事が多くある。酷いことをされた事で私にはきれい事が通用しなくなってしまった。きれい事で塗り固めた世の中を作ることもいけないけれど、何でもかんでも権力者の言いなりで起こったことをきれい事でしか片付けられないのでは、あなた方自身もいつも自分に嘘をついている事と同じなのだ。だからか穢れの無い人を見て汚したくなる心境も、いつも自分に嘘を付いている事で一種の変な仲間意識から起こっているようにも感じる。そして今私にされている状況を言葉で表せずに、有耶無耶な感情が残っていたけれど、今朝目覚めて思い出した言葉があった。それは「寸劇」である。またこの状況を象徴する言葉として「沸く」「嘘」がしっくりくる。

「寸劇」は一体どうゆうもかと、言葉を聞いて不思議に思った人もいるだろう。私の状況と合わせて説明するのでニュアンスが違うと感じる人もいると思うが、そこは話の流れを見て欲しい。「寸劇」は本来一話完結で、その場で起こった話題に対し軽いノリで対処しその場でその話題を終わらせることである。例えば、その場で揉め事があって第三者が介入し考えの是正がある時には、面白く相手に不快を与えないようになだめる事がある。人の心はそう簡単には動かないけれど、その場では協調性を持ってでも理解を示してくれるものだ。これはその場で起こっている事でその時はその時でしかないし、その場で完結している話なので一話完結と表現している。他には、二者が一つの話題で口論になったら周りにいた人が適当に頷いてどちらかに加担してその話題を解決するのかと思いきや、曖昧に頷いていただけでその話題に触れることなく立ち去るのも「寸劇」と言える。しかし身体を操っている人達とそれに便乗して道理にかなわないことをしている人は、捉え間違いを起こし何年も何年もその場を引き延ばして現在に至っているのだ。「貸し借り」*1概念を持つ人達の中には、仲間でもない人を標的に勝手に貸しを作っては積み上げていて、それが壮大な嫌がらせにも繋がっているのだ。

「寸劇」はその時の状況を把握しておりそれに対処できる人が行うもので、話相手と利害関係のないことの方が多い。だけれど実のところ側近以外内容の前後を理解しておらず、寸劇がちょっとした救いの手であるのにおふざけだと勘違いしている人が首つっこむから、伝わる内容も支離滅裂だし相手の知らない処で勝手に利害関係が結ばれてしまうのだ。だから話がややこしくなるし、自分の進め方が寸劇であると認識してしまったのが関の山で、「寸劇」を一話完結にしないことが混乱の基になっているのだ。この話に首を突っ込む人たちを統率することも出来ていなくて、唯々衆人を黙らせて同じ行動をさせることではみ出し者を無くすことしか出来ないのだ。こんなに息苦しい「寸劇」はあったもんじゃない。

私は「沸く」を頭が考えで溢れている事と表している。辞典を調べれば①水が熱せられて湯となる②金属が熱せられてとける、とろける*2とあるが、頭が考えで溢れかえっている状態を①のように感じるからだ。また溢れているのは漠然とした考えに入り浸っている事でもあり、考えがまとまっていないから状況と状態を合致させられず、切れやすい人との印象を私は持っている。こういった人は何故か自動的に沸点が低くなっている人が多い。

頭が沸いている人は犬が序列を決める時と同じように人を序列で判断するとも感じた。相手が幾ら上の人でも気に入らなければ沸いている人の評価は低いままで、ご機嫌取りをされなければ相手の評価が上がることはない。こういった人達は物事を軽く捉える人が多く、おちゃらけていると捉える人もいるだろう。学生時代は大人しかったであろう雰囲気が残っており、けれどもこの人達の持つ野望を感じたのもこれらの行動を見てきたからで、反骨精神に重点をおいている人も多くいるように感じた。社会のルールが決められていてもそれを守るのはダサいと捉える節があり、出会う場所場所でその人とのルールを作り上げている様で常識人の私からはかなり不思議な光景にも見えた。こういった人達を見ていると正直に生きられないのかと心配にもなる。しかしその姿は「嘘」を連想させもする。

「嘘」は「沸く」にも繋がる事象で、嘘があるから怒りが起こり頭にきた腸が煮えくり返るといった言葉が出てくる。嘘をつかれると精神的に辛くなりそれが何度も何度も仕打ちのように繰り返されると、発せられる言葉や相手の行動に敏感になって切れやすいと笑われるようになる。頭にきても人目を気にしてその衝動を抑えて受け流さなければならなくなり、嘘を付いたことで嘘の連鎖が引き起こされて嘘だらけの世の中を作っていく羽目になってしまうのだ。特に頭が湧いている人は嘘を付く傾向にあり、寸劇が起これば指摘される要因を含んでいる人が多くいる。こういった人達は指摘される事が嫌いで寸劇で他人の話に潜り込み、人の話を聞く素振りをしては唯頷いて指摘されるのを回避して逃げ惑う人が多い。寸劇でなくてもこうゆう人達は必ず何かをしでかしており、見つかれば指摘されるので拒み続け、その度に嘘を塗り固めて人生を送ろうと画策もしている輩なのだ。嘘なんて化けの皮なんだからいつかは剝げて正体が明るみになるし、幾ら見てくれに拘っても内面の薄汚さは二十歳を超えれば徐々に表立ってくる。

懺悔

人は良心の下に存在している。大人になれば自らの良心を削いで劣悪な環境に身を置くことに美学を見出す人が居るけれど、それは人生における挑戦ではなく少年心の延長線上の出来事でしかない。そういった人達が「挑戦」を掲げるとするならば、良心に従うことこそが挑戦することになるのだ。またその人達は削がれた良心を隠し、持ち合わせている良心の全てを身体の表面に覆って生きていくから年齢を重ねれば重ねるほど、身体の芯にあって一生かけて使ていくはずだった自分の良心を短期間で使い果たしてしまうのだ*3。失くした物の醸成には時間がかかるし、これまでほったらかしにしていた良心を再構築するには体にかかる負担も大きいはずだ。

私はそういった心理がわからなかったし、おばさんになった今も無意味な事と感じてそのような行為に理解が及ばないしこれから先も私の考えは変わらない。世の中を変えるために社会を幾ら変えようとしても、人の心が変わらない限り何も変える事が出来ない。マイケル・ジャクソンの歌詞で「hold on」を始め、人や物事に先へ進むことを踏み留まらせる言葉は「ヒト」から「人」へと自らを進化させるときにも必要だし、もし宗教の戒律を課さない場合には自分の行動に付け上がらず自らを律するためにも、行動で一歩踏み留まらないと自分にとって最悪の事態を招くことになるだろう。何かをしているからと物質的に依存することも、結局は選択の過ちになる事も自分の責任と片付けられることを忘れてはならない。

*1:そもそも「貸し借り」は仲間内で行うもので、仲間以外でもし「貸し」が発生した場合はこの概念は適用されないのが普通の考えである。しかも「貸し」のハードルが勝手に引き下げられているのも懸念点である。(おこちゃまのやる事)

*2:広辞苑第五版

*3:参考:バロメーターの残量 - わたしのB面ブログ