わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

信心深くなること

 

私は以前のブログ*1で呪われた経験があることを書いた。その詳細は、身体に鉛を巻き付けられている様で一歩進むにももの凄く労力を要した事だった。東京は一区画が大きいのが特徴だが、その一区画を歩くにも何人にも抜かされて重い荷物を背負わされているようだった。それから、視覚がぼんやりして私が見渡す一面はテレビのノイズが混じったようで、いつも景色が薄暗くも感じられた。写経は知り合いが写しを持っていた事で興味がわき、当時は今よりも写経をさせてもらえるお寺も少ない中、二十代半ばで写経に行ったことがお墓参り以外で宗教に触れた機会であった。

写経をすること

お寺は菩提寺でもなければ宗派も違う処にお邪魔した。いつもお盆にお世話になっていたお寺とは違って、都内のコンクリートで出来たお寺は採光もしっかり考えられているようなまばゆい光が差し込む処であった。初めての事ですごく緊張して、更には中学生以来の習字で筆の扱い方も記憶から遠のいていた。写経料を払っていざ写経を始めると何故か書けない。小筆でのなぞりが難しかった事と、般若心経を横目に見た位では書くことが難しく、また言葉の読みを理解できていなかった為に尚更書くことに違和感を感じた。般若心経を書き進めると得体のしれない重みが徐々に身体押し寄せて、呼吸するのも難しくなっていった。まだ体力があったころで少し休んでから意地でも書き終えるように書き進めた。筆慣れしていない素人の書く般若心経は初めから下手くそだったけれど、後半の五行位は上手い下手の判断ではなくヤバイ位の書きなぐりようであった。椅子に座って仏様に向かって書いていたけれど、書き終わる頃の体の軸は左右どちらかに傾いていて体を起こしているのがかなりきつかった事を覚えている。般若心経は当時一回につき三千円かかるので、毎週行った方がいいと思ったけれど時間と体力とお金の関係で数回しか行けなかった。

人を操ることは霊界と人間界の境界線を曖昧にさせている事だ。とゆうのも何度も繰り返しになるが、私は身体を操られてボロボロにさせられているからそう感じる結果を導けたのかもしれない。また人を操る時は見えない力を使うので、その見えない力を使うことで霊界と人間界がごった返している状況を生み出しているとも言える。現に操られている私は、過去に転居し数年で壁の所々に黒いしみが出来てしまっていたのだ。しかも新居宅を購入すると家に息が吹き込まれるようで、数年でその家とその家族の相性がわかるようだ。数年たっても家と家族に異変がなければそこに住み続けても影響はないけれど、私の家のように数年で部屋のあちこちに黒いしみが付くとそこの地域やその家から歓迎されていない証でもあるのだ。それは地域とその家族の相性よりも、住まう人の行いで神様が判断しているとも感じるのだ。操る・操られることは自ら人間界に霊界を呼び寄せており普段よりも体力が奪われ、現代人には信心深さが足りていないのでやってもやられても身体に悪影響を及ぼすのだ。

祓うことと時間

タイトルの『信心深くなること』を書くに至ったのは、不妊治療をしている女性がお寺に通っている事を何かの情報で知ったからだ。その人の話し方はサバサバしていて何かを犠牲にしてそれを見ないように生きてきたかのように感じたられた。妊娠年齢とキャリアの狭間で人生の選択をしなければならなくなり、家庭に入り治療を進めることにした女性の話だった。私もお寺に写経に行ってから十数年経って家でお経を聞いたりお祓いの動画を見るようになったけれど、再開した時は般若心経を聞くだけでも身体がふらふらして気持ちがすっきりするまでに数か月掛かった。以前より気持ちがすっきりしてもそれを継続しなければ更なる改善は見込めず、しかし今でも定期的に進めることに抵抗があるのは霊やどこから持って来られたかわからない魂を私に投入されているからとしか言いようがない状態なのだ。先にも書いたように十数年前にお寺で般若心経を書いていて体に異変が出てきたけれど、例えば操られて生霊でも入っていいればお祓いをしてその操縦を解除しないと本当の意味でのお祓いは完了しない。そして再びそうならない為に般若心経を書いて信心深くあらなければならないのだ。

私は昨日(令和3年9月1日)また可笑しなことをさせられ自宅で般若心経を写経した。その時起こった現象は一時的に目が見えなくなることだった。そしてこれも初めて感じた事だったが般若心経をスピーカーで流して般若心経を書いていると、般若心経の持つ意味とは逆に意味を捉えていたのだ。いつこんなに驕った考えに至ったのだろうかと反省しなければならなくなってしまった。私以外の人では状況が異なるけれど、懺悔はできるだけ若い内からしておかなければならい事で、人生のチェックリストに入れておいた方がいい項目だろう。「懺悔」と言われると強制的に反省させられると思いがちだが、自分を見つめ直すことが懺悔なのではないだろうか。人を操っている人達は高みに居たいがために、人の過去を見てはその人のやってきた事に難癖をつける。そして過ちから得られた経験を心に秘めて今後そうならないように暮らしているのに、それを引っ張り出して集中砲火を食らわせ、人の生活自体を破壊しているのだ。それまでの人生とそこからの人生の両方を痛めつける事が相手に対しての「反省」であり、我々がそれを制裁しなえればならないと勘違いしており、唯のきついいじめを大人になっても何故か受けなければならないのが今の日本なのだ。大体そうゆう奴等が自分を見つめ直すことが出来ていないのに、他人に口を挟んでくるのである。こういった人達には入念な懺悔が必要だ。

『心深くなること』は日々信心深くあること

このようなこともあって十数年ぶりに写経をするに至ったのである。いつ私の操縦が終わるかわからない日々を過ごしているが、迷惑なことに操っている人が他人の魂を私に入れようとしてくることがある。魂はよく口で感じる事があり、そのような場所に居ないのに口の中が粉っぽくなり、砂埃の中に居たかのようになる。うがいしてもそれは取れない。得体の知れない匂いが感じられたらそれは人の匂いで、他人の魂をあなたに入れようとされているのだ。そうやられたら本当は般若心経を書くよりもお祓いに行かないといけないけれど、日々般若心経を聞いたり写経をしたりお祓いの動画をスピーカーで流す事で少しでも信仰すること(耳を宗教に傾けてみる)を生活に取り入れていかなければならない。新興宗教が多い日本で宗教に傾倒するのは抵抗があるけれど、写経を通して自身の存在が確立される感覚を覚えた。今までわがままではなく主張として我を通してきた私が感じた事なので一理あると言える。