わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

怨霊について考えてみた

実のところ、私は小学生の頃と大学卒業後に複数人から呪われていた。それを知ったのはついさっきで、とあることでストレスを感じ台所のシンクに向けてコップを投げるとゆうよりも、角度を決めて落とす事をしてみたら粉々になったことを思い出したからだ。多分その角度から落としても粉々にはならないはずだ。呪われたことを調べる方法はネットにあるけれど、それを解くのは中々難しいと感じる。

呪いとは別かもしれないが、数ヵ月前よりも前から家鳴りがしていたこともあって、動画サイトに上がっているお経を流してみたり、この家に来てからずーっと違和感を感じていた方向に向かって般若心経の写しを置いたりしていた。この家の住人は、頭がおかしいから食事に嬰児を出してきたりして気持ち悪くなって、この地域に全うなお寺も少ないけれどその骨を生ゴミから拾ってお寺に持っていったのも数ヵ月前。お寺に行く前から写経はしていたけれど、湿度の高い季節ではないのにわら半紙は湿気を吸ったようにうねっており、そこに置いてあるだけで気味が悪かったのでそれもお寺に持っていきお焚き上げをしてもらったことがあった。その時対応していただいた住職様には感謝をしている。

話は前後するが、お寺に行く前にお経を流していて起こった事がある。お経を聞くからか、身体に制限が掛かっているようで喉が締め付けられているようにも感じていた。しかしそれは私にとって苦しいけれども身体には良いような感じであった。このような事があり、除霊や厄よけに効果がある九字切りを聞いたり、光明真言を流していた。そうして起こったことは身体から何かが出てきたことである。形で表すとしたら球体のものが首から五六個、胃の辺りからも同じくらい急に出てきたのである。出てきたと言っても目に見えるものではなくて実感できる何かだけである。それが起こってから少しの間だけ身体がやけに軽くなるなった事があった。

怨霊について考える事になったのも先のストレスが原因である。人は死ぬと霊体になるけれど全員が全員怨霊になるとは限らない。死ぬときに、これまで生きてきた中で得られたものが大きければ満足して天界へ旅立てるのかもしれない。一方で、これまで生きてきた中で何か解消されない事柄があれば、不満に充ちた気持ちが解消されるまでは天界には行けないので怨霊として迷惑と思う人にやっかみを与えているのではないだろうか。私の場合七八割怨霊になるのではないかと踏んでいる。とゆうのも私に与えられたストレスは絶対に解消される事の無いものだからである。私が得たこのストレスを解消しようものならば、現世は更にハチャメチャなものになるからである。度を越しているようにも聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなのである。

怨霊は、満たされない気持ちや解消できない想いが見えない形になってしまった形態と考えれば、その前に出来ることは沢山あると思う。あいつは自分から動かないからダメだと揶揄するのではなく、何か気付いた事があれば気付いた人から行動を起こす事がこれから先怨霊を生み出さない為の秘訣でもあるのかもしれない。