わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

他人事で造られ生活を強いられる

仏教

 自分自身を仏教徒であると昔は認識していなかったけれど、十年位前には自ら写経をしにお寺に赴いたり便利になった世の中を利用して動画で仏教について学んだり自宅で気軽にお経を聞ける世の中になった。本当ならお寺に行って、その雰囲気を感じながら写経したりお説法を聞けば気持ちの面からも自分の居場所を確立させられる。近年信心深くあるようにと説かれると、人々の性がそれを撥ね退けてきたからそれを忌み嫌うようになった。しかし気持ちを少し宗教に傾けるだけで、それを心の拠り所にすれば信念が徐々に確立され自分自身の考えが鮮明になるし、対人関係で認識の違いがあれば明確に違いを示せるようにもなる。もし対処出来ない事があったとしても相違を感じればそれに対処できるようにもなり、物事の善し悪しを判断し意見が違っても自分の意見を貫き通せる意志がつくものだ。

私は身体を操られ身体を大きく変えられていることはカミングアウトしている。誰しもが❝妖精さん❞からいつまやかしを受けてもおかしくはないのだ。残念なことに私の周りには、理由なくせっせと私にちょっかいを出してくる人が大勢いる。こちらとしては受け身にさせられている側なので、なぜそのような事をさせられなければならないのかといくら考えても、能動を欲する人々の考えが浅はかすぎてその行動を全く理解できない。能動的に動く人は相手が理解できないことを良いことに嫌がらせをしてくるし、世の中はそれを容認しておりその何もかもが手に負えない状態に陥ってしまった。そうゆう人達は本来の遊び方を知らない人達で、際限を知らないから、何もかもが回復できないところまで進展しないと何をやっても許されると信じているのだ。しかし、この能動さん達も実は他人事で操られていことを知らずに高みに上れていると勘違いをしている。

そもそも「相手が理解できないこと」を良いことに行動することができるのはがきんちょである。テレビやネットでも取り上げられたことがあったが子供は考えるよりもまず動くと言われているし、相手があなたの行動を理解できないのはそもそも相手とあなたの存在するステージが違いすぎているからだ。ここで、最近知ったことがどうもこの事象によくあてはまることが判明した。それが学問の一つともいえる仏教から得た言葉だ。

一人の自分勝手が他人事の始まり

仏教において人間は自己中な存在とされている。それは有名な和尚様が若いころに感じたことでもあり、仏教徒だからとゆうわけではない。皆もよく知っている言葉にガリガリ「ガキ」がある。これを仏教の表現にすると「我利我利亡者」「餓鬼界」になる。

我利我利亡者とは自分さえ手に入れることが出来れば、他人はどうなってもいいとゆう考えであり、その心である。自己中で自分勝手な事である。

また餓鬼界は欲の心の業相*1の事を言い、欲しい欲しいと苦しむことを餓鬼道と言う

餓鬼界とはずっと飢え乾ききっている処で、飲食をしたくても目の前に現れた食事を口に運べず消えてなくなる処である。欲しい欲しいと苦しみ続けるその様が私たちの本当の姿である。

 子供のことを「ガキ」と表現するのも、自分の事しか考えられないか自制心がないからそのように呼ばれるのである。子供とは、まだ因果に基づく業の姿を体得していない状態なのである。また「ガリガリに痩せる」「ガリ勉」のように「ガリ」が用いられている言葉には、自分さえよければいいとゆう考えが先行している状態であるとも言われている。 またこういった例もある。

相手が自分勝手で、何でも自分さえ我慢すればいい。私は相手を考えられる(利他)けど相手は自己中で考えられない人間。だから自分さえ我慢すればいい。

こういった考えは我慢の美しさを謳っている様に聞こえるけれど、結局は自分を自分で追い詰めることになり病気に発展しかねない。しかもこの認識は相手にレッテルを貼って、上から目線でしか人を見られないことを教えてくれている例でもある。これも自分さえよければいいとゆう考えなので結局はうまくいかないのである。 結局人は自分さえよければいいと思う人間であり、そしてこれが我々の実態でなのである。

他人には相手を考えろと利他を要求するするが、自分だって我利我利亡者なのに相手の事を考えていると自惚れていて、それでも他人こそいつも自分勝手だと決めつけている。

 人を操ることはギャンブルをすることと一緒

他人事を私に強要する奴等はギャンブルをしているのとまったく同じことなのである。私を人間と捉えずに生物と捉えているから何度も再生させ、どれだけいたぶれば死に追いやれるかを常々考えて止まない人達だ。先にも述べた通り、理由が余りにも浅はか過ぎて全く理解できないし、本当にこんなことをやってはならないのだ。ここに一つの例があるので見ていきたい。

ある男性は先日もらったボーナスを全額使うほどのパチンコ依存症である。結婚はしておらず、これまでに一軒家が建つ位の金額をパチンコに費やした。お寺に通うようになって相談したことで四十代になってようやく辞められた。

 ギャンブルは高揚感とビギナーズラックによって期待値を上げられる。だからかそれにはまり続けいつまでもそこから抜け出せないのである。それについてこうも捉えられる。(以下は先述と同じで仏教視点からの引用である。)

一、病気だと知る

ニ、踊らされていると知る

三、ごまかしていると知る

四、人生の目的を知る

一、病気だと知る

ギャンブルは病気である。それは決意位では治らないのだ。入院や厚生施設に入って投薬や管理をしてもらい、ありとあらゆる方法を試さないと駄目である。風邪を引いて「もう咳をしません」と言っても、堪えても出てくるものだ。病気であると知って判断しなければ又同じことの繰り返しである。違う例で夫がキャッシング限度額までパチンコに費やし、借金を負ってしまった。妻に頭を下げて謝って、その分を工面してくれたけれど結局また同じことをしてしまったそうだ。縁(パチンコ)を断ち切れず自らの意思で因(選ぶ)をし、繰り返し果(借金)を作ってしまうのだ。「ギャンブルさえしなければいい人なのに」といいところを探して褒めるのではなく、本人も周りもそれが病気であることを知らなければ何も打つ手はないのである。

ニ、踊らされていると知る

パチンコ屋は人集客するために、電飾を駆使し高揚感に包まれるように演出している。そして職業柄踊らされる人を知っているのだ。三月四月は新規顧客を取り込むため、当たりやすく機械を設定するそうだ。ギャンブルをすることは財欲に踊らされているのと同じとも言える。仏教では五つの欲を「五滴のはちみつ」と言い表わしている。はちみつは、どんな危機的状況に置かれていてもあまりにも甘くおいしいので虜になって、どうしたら舐められるのかに没頭してしまっている例えがある。「五滴のはちみつ」は人の五欲に当てはめることが出来、食欲財欲色欲名誉欲睡眠欲がある。この欲に踊らされるから人は楽しすぎて自分の置かれている状況を忘れ、その状況がどんなものかが理解出来ていないのである。踊らされている例として、東南アジアのオラウータンの生け捕りがある。始めは水瓶に水と数滴のアルコールを入れて、様子を見つつ徐々に水瓶の中身をアルコールだけにして酔わせてゴロゴロし酔って寝ている隙に捕るそうだ。その状態は欲に酔わされいいようにされて、オラウータンと同じで笑えない状況と何ら変わらないのである。

三、ごまかしていると知る

ギャンブルにおいて願いは何時か叶うは危なっかしく、唯の無謀であり現実から目を背けてはいけない。自分をごまかす事は現実を認めずに楽な方に逃げていることと同じである。原因を無くしていった先に結果が変わる、これは仏教の教えである。ギャンブルで借金を作ってしまった場合、その原因はギャンブルである。ギャンブルの負けはギャンブルで返すと、一攫千金を狙うことと同じで因果の道理を知らないことと同じである。先ずは諦観*2しなければならない。地道に倹約を長期にわたって続けることが諦観している姿なのである。謝罪と諦観を避けることは自分自身が作った結果の苦しみをごまかしていることであり、諦観の種まきをすることで苦しみから抜け出せるのである。

四、人生の目的を知る

自分が本当に果たさなければならない目的は何かを知らなければならない。ギャンブルに溺れる人は、目的を知らないから時間やお金を無駄遣いしている状況なのである。人生は儚く短いけれど、ギャンブル以外にもっと大切な事に使える時間があるのではないだろうか。例えとしてギャンブルを取り上げているが、それだけではない。各人が必要ないことばかりに時間を費やしていないだろうか。

*3

世人 薄俗にして ともに不急のことを争う

世の中の人は薄っぺらくて俗っぽい。急がなくていいことばかりにバタバタと追われている。

いったい何のために生きているのかを見直さなければ、人生の目的を知ることはできない。

エロ王国日本

常々私はいたぶっている人たちを、なんて暇人なのだろうと思っている。ギャンブルと同じで高揚感を感じているならば病気だし、操っている人たち自身が他人から踊らされていると何故全く感じないのだろうか。ごまかしの視点を変えれば自分に跳ね返ってくるし、本当に今世で果たすあなたの役割はいったい何で、あなたがこの世に生を受けた目的は寸分の狂いなく果たされているのだろうか。他人を操っている人は、第三者の意向を汲んで特定の人の技量や能力や美貌を奪って第三者が喜ぶことを生きがいにしているのである。それはまるで、お金が足りなくなって簡単に借りられる男に工面をお願いしているこ様子と何ら変わらず、場所を設けていないチープすぎるキャバクラでしかない。流石エロ王国日本と言われてもおかしくないことである。その第三者も他人事で生かされたていると知ったらどんな事を思うのだろうか。人に対して見える力でも見えない力でも、人が健全に生きられない状況を作り出すのはいけないことで、その当たり前のことが出来ないからいつまでも自分を誇れず他人の魅力ばかり追い求めて継ぎ接ぎ人生を歩まなければならないのである。

*1:ごうそう:因果に基づく業の姿 

*2:たいかん:明らかに心理を観察

*3:釈迦様の言葉