わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

沸点を低く設定しなければ崩壊が起きる

癇に障る物言い/崩壊

よく高校の同期に私の怒りの沸点は低いと言われていた。それもその通りで、私の本来いる環境ではない人達と時間を共にしていたから、慣れるよりも前にその言動に機敏に反応できるようになってしまったのだ。あの言動を受けても全く慣れないし、寧ろ怒りが早く沸き立ってくるようになった。そいつらの起こす言動は、一般的に見ても何を言っているのか判らなくて気色悪く感じる人が私以外にも居るのではないかと感じてしまう程だ。それは大体が煮え切らない言い方や、頼んでもいないのに勝手な自己完結文を心の中で終わらせないで一方的に相手に押し付ける形で言ってくるのである。伝えるのではなく必ずと言っていいほど一方的に言ってくる。何も知らずに話を聞く体制を取ろうものなら、その期待を裏切られることは間違いないだろう。なのでこれと言って具体例を挙げられない。

 物質的にも精神的にも既に崩壊が世の中に起きている。今の政治家が、何を質問されても同じ言葉を繰り返したり代り映えの無い政治が蔓延るのは、世の中が堂々巡りに合ている証拠でもある。外交などでこれまでは結びつきの薄い国との会談があったり、難題に対処し着実に前進していると言われる方もいるかもしれないが、日々の進捗の話をしているのではない。時系列を遡ってみれば、2011年を境に社会が浮足立っている様にも感じた。海外に住んでいなかったので詳しいことは知らないけれど、特に日本は酷く浮足立っている状態が続いている。こうなった時には善処よく立ち回らなければならない。浮足立つ時は物事の事実確認が重要ではあるが、感覚で判断するようになる事がもっと大事になってくると常々感じる。違和感を感じて「あの時のあれは何なんだろう…」と思った時が浮足立った時なのだ。この状態になると人々は普段よりも舞い上がり何でもない日々までもが楽しいと感じるようになり、多分気持ちの面でも感情が高ぶることがあるだろう。こうゆう状態が長引けば常識人とお祭り頭の間に軋轢が生じ、小競り合いが頻発してしまう。常識を持った人が、軋轢が生じる前に当たり前に常識の隙間を搔い潜ってでも指摘していれば、大きな崩壊は避けられただろう。お祭り頭の人達は餓鬼界に生きている人達だから、浮足立つ時は出しゃばる恰好チャンスと捉えているのだ。それを「楽しそうにしているね」や「何か面白いことやっている」と自分とは関係ないことと言ってほったらかしにするから、時すでに遅しで幾ら常識を論(あげつら)っても状況の改善にはならないのである。

常識は枠の中

常識が守られ秩序が保たれている状態は飽和で言い表せる。

飽和…最大限度まで満たされている状態。ある状態を増加させる要因を増してもその状態量が一定限度に止まり、それ以上増えない状態*1

飽和の意味を理解できてれば色々と面倒な事は起こらないと思う。飽和は社会基盤がモノと人々の解決されない思いでごった返している状態を表していると考えてみるのはどうだろうか。それは既に二〇〇〇年に入ったころにはそのような状態であったし、それから数年して感じたことは、これからの社会は物質・精神共に昔のようになっていかなければならないと薄々感じていた。そしてこれ以上の突飛な進展は、環境面から見ても自然は飽和状態を望んでいないと肌感覚で感じた。それでもまだこの状態が保たれていれば、人々の物事に対する共通の思いが強かったし、当時過ごしていても自然の優しさに包まれていてその中で過ごす人々も今とは比べ物にならない豊かさがあったように感じる。これまでは自然の中に人々の暮らしが存在していたけれど、今は本来あったその自然するら敬う人がいなくなってしまい、人在りきの土地を醸成してしまったがために氏神様の存在すら忘れてしまったかのようで、これまで人々が積み重ねてきた行いがあったからこその豊かさが消え去っていこうとしている。

人々に関して言うならば、それは飽食になってしまったことで社会に影響を与えている。

飽食…①腹いっぱいに食べること②食物に不足の無いこと。生活に何の不足不自由のないこと*2

意味をそのまま捉えて食べ過ぎている人がいれば、本来その性に持ち合わせない実力がどうゆうわけか備わっており気持ちが常に舞い上がっている人もいる。飽食の人が増えたせいで、例えば本来発表されるはずだった研究が頓挫させられ別の人がその研究を受け持つことで、伝えたかったことが伝わらないものになってしまったとか、人が美を追い求めるせいで本来の美人さんが世の中から見ることがなくなってしまって、容姿だけでなく性格の面からも憧れる人が現れなくなってしまった。そしてそうゆう人達は自分だけが良い思いをするに飽き足らず、憧れていた人を目の敵にし出し嫌がらせを興じ始めたのだ。人は何かのはずみでタガが外れると何かのタイミングで突き落とされない限り、何時までも何かにつけて人に嫌がらせをしてしまう性になってしまうのだ。そうなっている人達はいつも高みに上っていないと気が済まなくて、そうなっていないと自分が保てないのだ。そういった人達からは*3「自分が良いと思ってこうなろうとした結果が今なのだ」や「私はこうなるべき人間なんだ」とか、仕舞には「僻(ひが)むならあなたも努力しなさいよ」と、こちらが迷惑を被っているのにあたかも自分が迷惑を被っていると認識の違いまでわざわざ伝えてくる始末だ。

初めにも書いたようなことが例を挙げると上記に当て嵌まり、論点をすり替えられて全く腑に落ちない内容を言われるのが常である。こうなると人はキョトンとして一瞬でも怒りはどこかに消えてしまう。このことが積み重なることで、常識と照らし合わせても「浮足立った」と表現される人達がゴロゴロと増えていく原因になる。そしてこういった積み重ねを解消しない結果飽和状態が長く続き、常に欲を満たし続ける飽食を辞めない人たちによって崩壊を招く結果となるのだ。

沸点を低く設定しなければ崩壊が起きる

論点をすり替える人達は思いの外精神年齢が低く、まるで「私を言い負かしてみなよー」とも捉えらえる雰囲気をいつも醸し出している。こうゆう人達を相手にするのは子供を相手にするよりも当然厄介だし、その人達は注目されることを日頃から望んでおりまるで自分の性格を把握させたい衝動があるかのようで、学生時代に係った人を見てもそう捉えられるような言動が多く見れた。だから精神年齢が高い私達が大らかに沸点を高く保って転がせておくのでは、またニ〇一〇年台に起こったような社会を惑わす「崩壊」を招いてしまいかねない。

大人のおこちゃまにも何かしらの社会が存在しているのも事実だが、常識は善くも悪くも枠の中で起こっておりその枠を自分の都合のいいように渡り、結局は権力者に後始末を頼むような人達でもある。何かと迷惑を掛けられる側に居るのであれば、その人達を良いように泳がすのではなく臨戦態勢で居なければ「おこちゃま」なので様々な面で厄介が付きまとう結果となってしまう。

*1:広辞苑第五版

*2:広辞苑第五版

*3:これまでの経験上言いそうなことを記しています。