わたしのB面ブログ

娑婆に関心が持てなくて20代後半で尼寺に行った方がいいのでは、と考えていた人のお話

もしもの世界

居ることと居させられること

今生きている環境について考えたことがある人はどのくらいいるだろうか。なぜこの世に生を受ける必要があったのかにつながる考えでもあるのだ。細かいことを今は言えないけれど、そこに目を向けないといけない話なのだ。

私がここに生を受けて生きているのは、私がここに「居ること」を表しているのだ。現に可笑しなことが起こるまでは常に「今」を生きるようにしていた。「今」を主体的に生きている事が「居ること」であるとするならば、主観的になっている事がそこに「居させられていること」になる。

主体的…ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。*1

主観的…①主観による価値を第一に重んずるさま。主観に基づくさま。②俗に、自分一人の考えや感じ方による態度であること。*2*3

世の中は何時からこんなに物騒になったのだろうか。唯唯地球上に存在することを許されないのはなぜなのだろか。誕生してから本当の家族に育てられてのびのび過ごしすくすく成長して、恋愛して大人になって仕事をして結婚して出産して子育てしての流れが誰にでも当然にあって掴める幸せだとも思っていたけれど、私を含めてその当たり前を手にしたくても出来ない人達がいる現実が日本に存在するのだ。これは主体的に動けていないのは明白だが、なぜ「居ること」ではなく「居させられること」を強要させられなければならないのだろうか。私の身体を以て私の人生が成り立つのに、何故あれこれ手を加えられなければならないのだろうか。それは見えない力で身体を変えられていることとも同じ事で、私の知らない処で口裏合わせをしたのか、悲しいことに色恋沙汰においては男性からのアプローチを一切受けられなかった女なのだ。(色々と努力してこなかったからと思った人は過去ブログを参照の上読み直してください。)

私の考えでは、人がそこに居れば声掛けを経て会話が始まりお互いを知るようになる。それを何度も繰り返すことで、お互いの相性が合うとお付き合いに発展していく流れが一般的な流れであると考える。しかし強制的に居させられることを「させられている」人達はこの一般的な流れに乗ることも乗っかることも許されない世の中なのだ。ごく当たり前の恋愛をするだけでも、何故か尻を出しては何人にも強姦させられなければならないので、頭と下半身のねじが緩んでいる人若しくは何故か区別され優遇されている人だけにしか当たり前のことが「優遇」されていないのである。

もしも…

そういった人達は一体何がしたくてそうゆうことを周りにさせているのだろうか。被害者である私もその人達の真意を見出せないし、真意を提示されたとしても何と浅はかな考えなのだろうと思う位動機が軽すぎて心底驚くであろう。「居ること」を変えられて「居させられること」をさせられる世の中はもしもの世界である。私達の存在意義は変えられてはいけないし変えてはいけないし、そもそも何にも変えられない唯一無二の存在なのである。もしもの世界ではこの存在が潰されて劣等遺伝子に世の中が席巻されており、それが今の世の中とも言えるのだ。「もしも自分が○○だったら、(自分が)上手くいくのに…」と実現不可能な現実を追い求め、「もしも…」とゆうでっち上げとも捉えられる夢現(ゆめうつつ)を追い求めさせて、本来その人が持ち合わせない力が発揮されることを言うのだ。しつこいようだが、私はそんなもしもの世界に強制的に付き合わされ身体をボロボロにさせられている。何度も言うがこうゆうことは絶対にしてはならないのである。この返答を浅はかと捉えられても、もうこれ以外言う言葉がない。とゆうのもこんなに単純明快で、してはいけないとゆう道理を正す言葉を言われてもそれを無視し続けられるのは現実を直視できていないことにもなり、本来の現状を見て見ぬふりをしているのも同然なのである。しかも、もしもの世界に入り浸っている人達の常識は特殊で常識に沿った理屈を論(あげつら)うと、そうゆうことが知りたいわけではないと言い、「常識に則ったつまらぬ理屈」と屁理屈をこねる始末なのだ。そして結局理屈を無視して自分達の価値観に染まっていないといられない人で、入り浸っているグループの価値観が常識とも勘違いしているのである。

 

もしもの世界ゆとり世代が良い例にも感じる。ゆとり教育世代と仕事をしたことがあって、その人達と触れ合っていると考え方や発言が何においても平均を実践している様にも感じた。よくあるいじめっ子や地域で名が知れている処の子供だと、親の実績でも他人より秀でている事を誇りに思っていて、学校などでは尖っている事で注目を集めることもある。だけどゆとり世代は尖っているグループかおっとりしてるグループの二択しか選択できないように感じ、その中間が無くて必ずどちらかに属していないと仲間外れにあう印象を受けた。私が思うに子供の成長に良くないと思うことで、二極化された中で「花いちもんめ」のようにひそひそとグループ内で共通認識の事をしゃべったり、片一方のグループと何か接点を持つ場合にもグループ内で決まったことを伝えるだけのようにも感じた。グループが二極化してしまった事で本来そうゆう仕草を見せない人も、そのグループに染まっていないと仲間はずれが起こる事を懸念してそこに馴染む態度を取るようになっている様にも見えた。それに意見をまとめる事は個人の意見は結局潰されている事と同じで、直接相手に自分の意見を伝えなければ意思は伝わらないし、実のところ本当の意味での意思疎通が出来ていない事と同義であるとも感じる状態でもあった。

特殊な常識の中に居られない人を淘汰とゆう名目で痛い目に合わせる事は、もしもの世界線でしか生きられない人が自分の存在をそこでしか誇示できないからかもしれない。もし*4もの世界があるのならば、もしもを付け加えない本当の世界が存在することを忘れてはならない。

*1:広辞苑第五版

*2:広辞苑第五版

*3:客観的は主観があって客観になるので対義語ではない。(持論)

*4:若し…確かめてない事、まだはっきりとはわかっていない事、事実に反する事、等 広辞苑第五版